2013年08月30日
「信仰の三つのレベル」
信仰には三つのレベルがあると思う。
第一は、 「頭の信仰」 である。
聖書の言葉 (神の言葉) を読んだり、 聞いたりして、
頭 (知性) で理解し受け入れる信仰である。
「そう言われればそうだ」 「うん、 なるほどね」 と納得する。
でも、 知的信仰は、 神の言葉に反する情報が入ってくると、
疑いが生じてすぐに動揺してしまう。
疑いによって揺れ動く信仰である。
神はおられるという神の存在 (遍在) を信じるだけのレベルの信仰である。
第二は、 「心の信仰」 である。
神の言葉を心 (感情) で受け入れて、
「ハレルヤ!」 と叫んだり、 喜んで讃美したりする。
感動のあまり涙を流すこともある。
でも、 感情的信仰は、 なんらかの事情で感情が落ち込むと、 信仰も落ち込んでしまう。
気分によって上下する信仰である。
神は自分のそばにおられるという神の臨在 (隣在) を信じるレベルの信仰である。
第三は、 「肚の信仰」 である。
肚の底 (霊) で神の言葉をで受け入れ、 肚の底で納得し感動する。
肚の底から喜びが込み上げて、 肚の底から賛美する。
その人の肚の底から生ける命の水が湧き起ってくる聖霊の信仰である。
聖書の言葉に反する情報が入ってきても、 なんらかの事情で感情が落ち込んでも、
信仰が動揺したり上下することなく、相変わらず命の水は湧き起り続ける。
むしろ、 困難や試練に遭遇するほど、
神の言葉がしっかり根を張り、 信仰がっしり成長して
ますます実を豊かに結んでいく。
神は自分の内に生きておられるという神の内在 (内住) を信じるレベルの信仰である。
神の言葉は、 まず頭 (知性) から入り、 次に心 (感情) に届き、 最後に肚 (霊) に落ちるものである。
ほとんどの人はそのプロセスの中で多くの試練やあ苦難を体験し、
古い自我 (肉なる人) が徹底的に砕かれて、
新しい自分 (霊なる人) 強められなくてはならない。
・・ 参照 (マタイ 13・18-23)
第一は、 「頭の信仰」 である。
聖書の言葉 (神の言葉) を読んだり、 聞いたりして、
頭 (知性) で理解し受け入れる信仰である。
「そう言われればそうだ」 「うん、 なるほどね」 と納得する。
でも、 知的信仰は、 神の言葉に反する情報が入ってくると、
疑いが生じてすぐに動揺してしまう。
疑いによって揺れ動く信仰である。
神はおられるという神の存在 (遍在) を信じるだけのレベルの信仰である。
第二は、 「心の信仰」 である。
神の言葉を心 (感情) で受け入れて、
「ハレルヤ!」 と叫んだり、 喜んで讃美したりする。
感動のあまり涙を流すこともある。
でも、 感情的信仰は、 なんらかの事情で感情が落ち込むと、 信仰も落ち込んでしまう。
気分によって上下する信仰である。
神は自分のそばにおられるという神の臨在 (隣在) を信じるレベルの信仰である。
第三は、 「肚の信仰」 である。
肚の底 (霊) で神の言葉をで受け入れ、 肚の底で納得し感動する。
肚の底から喜びが込み上げて、 肚の底から賛美する。
その人の肚の底から生ける命の水が湧き起ってくる聖霊の信仰である。
聖書の言葉に反する情報が入ってきても、 なんらかの事情で感情が落ち込んでも、
信仰が動揺したり上下することなく、相変わらず命の水は湧き起り続ける。
むしろ、 困難や試練に遭遇するほど、
神の言葉がしっかり根を張り、 信仰がっしり成長して
ますます実を豊かに結んでいく。
神は自分の内に生きておられるという神の内在 (内住) を信じるレベルの信仰である。
神の言葉は、 まず頭 (知性) から入り、 次に心 (感情) に届き、 最後に肚 (霊) に落ちるものである。
ほとんどの人はそのプロセスの中で多くの試練やあ苦難を体験し、
古い自我 (肉なる人) が徹底的に砕かれて、
新しい自分 (霊なる人) 強められなくてはならない。
・・ 参照 (マタイ 13・18-23)
Posted by アブラハムささき at 01:56│Comments(17)
この記事へのコメント
おっしゃる通りですね。本当によく分析されています・・。
たぶん、1や2の段階で止まっている人が、
私以外にも多くいるように思います。
3に行ってこそ、「証」ができるのですね・・。
もっと祈り、主に聴くようにしたいです。
たぶん、1や2の段階で止まっている人が、
私以外にも多くいるように思います。
3に行ってこそ、「証」ができるのですね・・。
もっと祈り、主に聴くようにしたいです。
Posted by haru at 2013年08月30日 10:11
神の言葉を信じる信仰の三つのレベルをわかりやすく説明していただき感謝します。
神の言葉をリンゴに例えて見ました。
頭の信仰はリンゴを見ておいしそうだなぁと理解するレベルの信仰です。
心の信仰は皮を剥いてリンゴを舐めてみて、おいしい!と感激するレベルの信仰です。
肝の信仰はリンゴを食べてそのすべてを味わい消化して体に活力を与えるレベルの信仰ですね。
神の言葉をリンゴに例えて見ました。
頭の信仰はリンゴを見ておいしそうだなぁと理解するレベルの信仰です。
心の信仰は皮を剥いてリンゴを舐めてみて、おいしい!と感激するレベルの信仰です。
肝の信仰はリンゴを食べてそのすべてを味わい消化して体に活力を与えるレベルの信仰ですね。
Posted by イラストレイター at 2013年08月30日 17:20
アーメン!
パウロの
「生まれながらの人間」、
「肉に属する人」、
「御霊に属する人」
の分け方を思い出します。(Ⅰコリント2•14)
生まれながらの人間(救われていない)は、
決して真理を真の意味で悟りません。
肉に属する人(救われてはいる)は律法的な歩みです。
御霊に属する人は、聖霊によって歩み、その人の信仰は揺らぐことはありません。
日本人クリスチャンには、「御霊に属する人」であると自称する「肉に属する人」が多いように感じます。
日本人クリスチャンが真に聖霊によって歩む時、日本でもリバイバルが実現するかもしれませんね…
パウロの
「生まれながらの人間」、
「肉に属する人」、
「御霊に属する人」
の分け方を思い出します。(Ⅰコリント2•14)
生まれながらの人間(救われていない)は、
決して真理を真の意味で悟りません。
肉に属する人(救われてはいる)は律法的な歩みです。
御霊に属する人は、聖霊によって歩み、その人の信仰は揺らぐことはありません。
日本人クリスチャンには、「御霊に属する人」であると自称する「肉に属する人」が多いように感じます。
日本人クリスチャンが真に聖霊によって歩む時、日本でもリバイバルが実現するかもしれませんね…
Posted by 生きることはキリスト at 2013年08月30日 23:17
キリストの肉を食べ、その血を飲まなければ、その人の内に命はないとイエス様は言われました。
ですから、神の言葉は頭で読んで記憶したり、心から感動したりするだけでは、その人の命にはならないということなのですね。
神の言葉はそれを食べて飲んではじめて、その人のお腹で血となり肉となって命になるのですね!
ですから、神の言葉は頭で読んで記憶したり、心から感動したりするだけでは、その人の命にはならないということなのですね。
神の言葉はそれを食べて飲んではじめて、その人のお腹で血となり肉となって命になるのですね!
Posted by 相良敏一 at 2013年08月31日 16:55
そうか、パンはいくら眺めても空腹は満たされない。いくらなめても空腹感がつのるばかりだ。パンはよくかんで味わいながらいっぱい食べて、お腹で消化して体全体の生命力になる。命のパンである神様の言葉も同じなんだね。
Posted by 食いしん坊 at 2013年08月31日 22:36
ちょっと難しいお話しですが、要するに、神の言葉であるイエス・キリストが自分の中に住んで一緒に生活してくださっていることを体験しながら生きるということですね。
Posted by 風来坊 at 2013年09月05日 23:25
御言葉から悟りを得る者は、神の知恵を得る。
御言葉から迷い出る者は、死人の集まりで滅びを味わう。
御言葉から迷い出る者は、死人の集まりで滅びを味わう。
Posted by eulogesai at 2013年09月06日 17:49
この川の流れるところでは、すべてのものが生きている。47章
を思い起こしました。
を思い起こしました。
Posted by エゼキエル at 2013年09月08日 23:22
自分の信仰が気分によってアップダウンしている理由がよくわかりました。神の言葉が自分の中に深く根ざしていませんでした。
Posted by 豊嶋 at 2013年09月11日 14:52
コロラド州、春に咲く花"サクシフラージュ"の先生の記事を偶然拝見しました。ままならぬ現状にダウンしがちな自分の人生に神様の力が必要です。日常の小さな事から神様の臨在、贖い主イエスキリストの愛を見出してゆきたい。
グランドキャニオンツアー、旅の平安祈ります。御気を付けて行って来て下さい。現地での新たな神様の導きと感動がありますように。
グランドキャニオンツアー、旅の平安祈ります。御気を付けて行って来て下さい。現地での新たな神様の導きと感動がありますように。
Posted by kansai rockbreaker at 2013年09月19日 02:19
あなた方は、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい。それともイエス・キリストがあなた方の内におられることを、悟らないのか。もし、悟らなければ、あなた方は、にせものとして見捨てられる。第二コリント13・5を読んで、はっとしました。
Posted by ある自称信者 at 2013年09月25日 23:45
題:ザビエルたち、キリスト教宣教師について・・・
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
日本に来たキリスト教宣教師たちは、最初の頃は、清貧
をかこっていたが、
金持ちの貿易商人とかかわるようになると、次第に贅沢
になって行った。
教会での食べ物をはじめ、衣服も贅沢化して行った。
従僕をかかえるまでにもなった。
あげくの果ては、祈祷や仕事に熱意を欠く者も出て来た。
また、衣服に関しては、日本人は、はなはだ外見を重ん
じる国民だからと異論を唱える者もいた。
つまり、規則通りのものでなく、華美なぜいたくな服装
をしたいという。
また、ザビエルは、清貧に甘んじたではないかとの論議
も出た。
しかし、実際は、ザビエルは、「日本人は外見によって
人を評価する国民だから」と言い、ザビエルは、華美に装
っていた。
この頃のキリスト教宣教師のフロイトは、嘘をつく事の
多い宣教師だったが、その1例だが、
頼りにしていた信長の家臣の和田惟政を過大にして、嘘
の報告をしていた。
例えば、姉川の合戦に参戦し、「信長軍中にある最も強
力な武将で、総司令官」だと、報告しているが、
和田惟政は、姉川の合戦に参戦もしていない。
姉川の合戦の当日、自領の神社に行ったとのはっきりし
た記録が残っている。
キリスト教はプロパガンダ(嘘宣伝)が多いが、日本へ
来た当初の頃から、この様な嘘体質だった。
そして、また、
日本に来たキリスト教宣教師の棄教は多かったが、
徳川幕府の見解をうかがい知る1例。
寛永20年に来日して、キリスト教を棄教したキリスト教
宣教師が、棄教した時に、
偽りの棄教でないことの確認をするため、誓文を書かせ
た。
その誓文に、キリスト教宣教師を取り調べ、書いたその
要旨に、その主旨がよく表れている。
その文には・・
「イタリアの国・ローマという所にキリシタン宗門の頭
・パッパという者(ローマ教皇のこと)がある。
国々へバテレンを遣わし、宗門を広め、その国がパッパ
に従えば、奉行を遣わして仕置きする。
ルソン・ゴア・ノビスパンなどその他多くの国をむさぼ
り取っている。
日本は、軍勢で従わせるには困難なので、後生のために
宗門を広めることにして、バテレンを渡した。
宗門がおおかた広まったら戦争をし、日本の多宗を打ち
たいらげ、パッパに従わせようというたくらみである」。
.
(詳しくは、以下のブログへ)
URL: http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009 /
URL: http://32983602.at.webry.info/
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
日本に来たキリスト教宣教師たちは、最初の頃は、清貧
をかこっていたが、
金持ちの貿易商人とかかわるようになると、次第に贅沢
になって行った。
教会での食べ物をはじめ、衣服も贅沢化して行った。
従僕をかかえるまでにもなった。
あげくの果ては、祈祷や仕事に熱意を欠く者も出て来た。
また、衣服に関しては、日本人は、はなはだ外見を重ん
じる国民だからと異論を唱える者もいた。
つまり、規則通りのものでなく、華美なぜいたくな服装
をしたいという。
また、ザビエルは、清貧に甘んじたではないかとの論議
も出た。
しかし、実際は、ザビエルは、「日本人は外見によって
人を評価する国民だから」と言い、ザビエルは、華美に装
っていた。
この頃のキリスト教宣教師のフロイトは、嘘をつく事の
多い宣教師だったが、その1例だが、
頼りにしていた信長の家臣の和田惟政を過大にして、嘘
の報告をしていた。
例えば、姉川の合戦に参戦し、「信長軍中にある最も強
力な武将で、総司令官」だと、報告しているが、
和田惟政は、姉川の合戦に参戦もしていない。
姉川の合戦の当日、自領の神社に行ったとのはっきりし
た記録が残っている。
キリスト教はプロパガンダ(嘘宣伝)が多いが、日本へ
来た当初の頃から、この様な嘘体質だった。
そして、また、
日本に来たキリスト教宣教師の棄教は多かったが、
徳川幕府の見解をうかがい知る1例。
寛永20年に来日して、キリスト教を棄教したキリスト教
宣教師が、棄教した時に、
偽りの棄教でないことの確認をするため、誓文を書かせ
た。
その誓文に、キリスト教宣教師を取り調べ、書いたその
要旨に、その主旨がよく表れている。
その文には・・
「イタリアの国・ローマという所にキリシタン宗門の頭
・パッパという者(ローマ教皇のこと)がある。
国々へバテレンを遣わし、宗門を広め、その国がパッパ
に従えば、奉行を遣わして仕置きする。
ルソン・ゴア・ノビスパンなどその他多くの国をむさぼ
り取っている。
日本は、軍勢で従わせるには困難なので、後生のために
宗門を広めることにして、バテレンを渡した。
宗門がおおかた広まったら戦争をし、日本の多宗を打ち
たいらげ、パッパに従わせようというたくらみである」。
.
(詳しくは、以下のブログへ)
URL: http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009 /
URL: http://32983602.at.webry.info/
Posted by ねこにゃんちゃ at 2013年09月28日 02:34
イエスは希望です。暗闇の中で輝く希望の光です。世界の光です。
Posted by マサハル at 2013年09月29日 09:06
サタンや悪霊に立ち向かって追い払っていくには、第三のレベルの信仰を持たなくてはいけませんね。よくわかりました。感謝します。
Posted by 一読者 at 2013年12月11日 10:20
昨年は試練が続いて何度も死んでしまおうと思いました。苦しい時には徹夜で祈りました。今年はイエスさまがとても身近に感じられます。状況は変わっていませんが、不思議に平安があります。なんとかなるだろうと思えますし、もしかしたらとてもすばらしいことが起きるような期待感さえ持てるようになりました。信仰もレベルがあるんですね。
Posted by 名無し at 2014年01月07日 09:46
私はまだ頭の信仰です。一応は聖書を理解しているつもりですが、問題に直面すると、自分の考えで対処してしまう。聖書と生活が一致しません。信仰と生活がバラバラなんです。どうしたらいいでしょうか?
Posted by ダブルスタンダード at 2014年09月14日 00:27
なかなか3のレベルに行けません。でも神様は、強制や脅迫は、決してなさらないということに、気付かされます。試練はありますが...。
Posted by ななし at 2014年09月21日 17:59