2013年02月16日
「日々を新しく生きよう!」
・・ 「見よ、わたしは新しいことをなす。
あなたがたはそれを知らないのか。
わたしは荒野に道を設け、
砂漠に川を流れさせる」
(イザヤ 43:19)
・・ 「たとい私たちの外なる人は滅びても、
内なる人は日ごとに新しくされていく」
(第二コリント 4:16)
・・ 「だれでもキリストにあるならば、
その人は新しく造られた者である。
古いものは過ぎ去った、
見よ、すべてが新しくなったのである」
(第二コリント 5:17)
・・ 「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」
(イザヤ 65:17)
万物の創造主は、 無から有を造り出される創造者、
すなわち 「クリエイター」 である。
創造主にそっくりに造られた私たち人間もまた、
それぞれが地上における小さな創造者、
「スモール・クリエイター」 である。
クリエイターの特徴はなんだろうか?
「クリエイター」 という言葉に、
「新しいことをする」
「新しいものを造る」
という意味が含まれている。
それはまた、クリエイター自身が
「新しくされていく」
という意味でもある。
「見よ、わたしは新しいことをなす」
自らこう宣言されているように、
神は新しいことをすることを好まれる。
ご自身が創造したものであっても、
人間の罪によって荒廃し砂漠化していく物事を、
絶えず新しく造り変えてくださっている。
創造主によって霊的に新しく造られたクリスチャンは、
日ごとに新しい人として成長するとともに、
常に新しいことにチャレンジし、
絶えず新しいものを造り出していく。
旧態依然とした体制や凝り固まった因習に縛られて
慇懃 (しんぎん) している人々を解放するために、
モーセのように、 神の新しいビジョンを受けて、
新しい方向 (神の自由な理想郷) へと導いていかなければならない。
本質は永遠に変わらないけれども、 形は常に新しく造り変えられて、
絶えず新しい方向に流れていく。
人間も日々新しくされている。
新しい血液、新しい細胞、新しい思い、
新しい出会い、新しい働き、新しい戦い、、、
すべてが新しくされているではないだろうか。
「荒野に道を造り、砂漠に川を流れさせる」 ことが、
神の新しい創造の目的であるとすれば、
私たちもまた、 神の子として、
荒廃した世の中で行くべき道を知らずにさ迷っている人々に、
神の国に至るキリストの道を造り、
むなしく心が乾ききっている人々に、
神の命が流れる川を造らなければならない。
その目的を達成するためには、
クリエイターとしての本領を発揮しなければならない。
最近、 自宅近くにできた、 「代官山・Tサイト・ヒルズ」 に入り浸っている。
代官山の閑静な高級住宅地の広大な敷地に、 蔦屋書店が
「新しい大人文化を提案する街」 として開発したものである。
敷地には、 三棟の2階建て低層ビル (各種書籍、 文具、 食品、
トラベルエイジェント、 ファミリーマート、 スターバックス、 カフェバーを含む)、
高級レストラン、 自転車ショップ、 イベントホール、
幼児ケアショップ、 ペットケアショップ、 大きな駐車場等がある。
書籍、CD等は、好きなだけ試読、試聴自由。
電源付きの大きなテーブルが2か所にあり、
自分のパソコンも使いたい放題。
午前7時から翌日午前2時まで営業。
このTサイトはおしゃれな若者にも大受けして、
たちまち東京の人気新名所になってしまった。
同地区は以前は、 最寄り駅の東横線代官山駅からもJR渋谷駅からも少し離れた不便な場所で、
近くに東京バプティスト・チャーチがあるほかは、 何の魅力もない陸の孤島だった。
しかし、 Tサイトができてからは、 ミニバス停車場もできて、
人で常時ごった返して、座る場所もないほどだ。
荒野に道が設けられ、 砂漠に川が流れ始めたということができる。
まさに、 都心の新しい文化のオアシスである。
時を同じくして、 新しい教会コンセプトで若者三千人が通う、 今話題の
東京バプティスト・チャーチが近く教会堂の立て直しが行われるという。
ここでもでも、 荒野に道が設けられ、 砂漠に川が流れ始めようとしている。
代官山Tサイト・ヒルズと東京バプティスト・チャーチの
それぞれの新しい道がつながり、 新しい川の流れが合流ししたら、
きっととてもすばらしい新しいことが起きるに違いない。
神のなさることは、 なんと時にかなって美しいのであろうか!
・・・ 「東京バプティスト・チャーチ」
http://www.tokyobaptist.org/top/ja/
・・・ 「代官山 Tサイト・ヒルズ」
http://tsite.jp/daikanyama/
Posted by アブラハムささき at 20:37│Comments(19)
この記事へのコメント
Chance, Challenge, Chute (落下),
Chance, Challenge, Capture
Chance Challenge and Change
Never give up,
Then, you will see streams of water through the wilderness.
Thanks
Chance, Challenge, Capture
Chance Challenge and Change
Never give up,
Then, you will see streams of water through the wilderness.
Thanks
Posted by オアシス at 2013年02月16日 22:17
ささき先生
素晴らしいです。
元気をいただきました。
希望を持って、明日の礼拝に備えたいと思います。
感謝致します。
菅野直基
素晴らしいです。
元気をいただきました。
希望を持って、明日の礼拝に備えたいと思います。
感謝致します。
菅野直基
Posted by パスター菅野 at 2013年02月16日 22:44
これまで、神さまと芸術家がクリエイターだと思ってきました。自分もクリエイターなんだと気が付きました。これから勇気を出して新しいことにチャレンジしてみようという気になりました。
Posted by トガシ・マサオ at 2013年02月17日 16:35
私も代官山Tサイトには何度か行きましたが、いつも新しい文化の活気を感じます。店員さんたちもイキイキして仕事をしていて、とても気持ちがいいですね。日本にも希望があると思わされます。
Posted by W.A at 2013年02月17日 23:51
私はいわゆるクリエイターの一人ですが、人間は本来クリエイターであるという聖書の根拠を知りませんでした。これからは自分がクリエイターとして造られていることに自信をもって仕事に取り組みます。
Posted by あるクリエイター at 2013年02月18日 21:37
知人のH.Oさんから、次のコメントが届きました。
代官山のTサイト・ヒルズのことを調べましたら、元々は、
徳川家の屋敷跡地だったとのこと。クリエイティブな能力を
与えられた人間が、新しいコンセプトで、“新生”させれば、
全く異質なものに変貌するという良い事例です。
ところで、なんと今日、奇しくも代官山の聖ヶ丘教会・現牧師
Sookil Park先生から下記の“項目聖書”的なものが送られて
きました。
*************************
【クリスチャンの聖書 “緊急連絡網”】
① 危険に直面した時は - 詩編91編、121編に行ってください。
② 孤独な時、怖い時は - 詩編23編に行ってください。
③ 信仰と確信が必要な時は - ローマ8章1~30節に行ってください。
④ 平安と休息を願うなら - マタイ11章25~30節に行ってください。
⑤ 罪を犯した時は - 詩編51編に行ってください。
⑥ 憂いがある時は - マタイ福音書6章19~34節に行ってください。
⑦ 辛さと危機の中にいる時は - 第一コリント13章に行ってください。
⑧ いじめにあう時には - ローマ8章31節から37節に行ってください。
⑨ 仕事や旅行で家を離れている時は - 詩編121編に行ってください。
⑩ 信頼が必要な時は - ヘブル11章に行ってください。
⑪ 狭い利己的な心で祈りをする時は - 詩篇67編に行ってください。
⑫ 悲しい時には - ヨハネの福音書14章に行ってください。
⑬ 失望した時には - Ⅱコリント4章、詩篇27編に行ってください。
⑭ 神が遠くに感じられる時は - 詩編139編に行ってください。
⑮ 世の中が神より偉大に見える時は - 詩編90編に行ってください。
⑯ 実をたくさん結びたいなら - ヨハネによる福音書15章をどうぞ。
⑰ 意気消沈する時は - 詩編27編、34編に行ってください。
⑱ 世の中が小さく感じるなら - 詩編19編に行ってください。
⑲ お金がない時は - 詩編37編に行ってください。
⑳ 人々が不親切な時は - ヨハネの福音書15章に行ってください。
21 私がした事に落胆する時には - 詩編126編に行ってください。
22 非常に良い機会があれば - イザヤ55章に行ってください。
23 他の人と仲良く過ごしたいなら ー ローマ12章に行ってください。
24 祈りたい時は - ルカ11章、ヨハネ17章に行ってください。
25 疑いが起きた時には - ヘブライ11章に行ってください。
26 困難な状況になった時は - 詩編16編、31編に行ってください。
27 試練にあった時には - 詩編1編に行ってください。
28 疲れた時は ー マタイ11章28~30、詩編90編に行ってください。
29 病気または苦痛の時は - マタイ26:39、Ⅱコリント12章9、10、
ローマ5章3~5節、Ⅰペトロ4章12~13節に行ってください。
30 堕落しそうな時は - Ⅰヨハネ1章、詩編51編に行ってください。
代官山のTサイト・ヒルズのことを調べましたら、元々は、
徳川家の屋敷跡地だったとのこと。クリエイティブな能力を
与えられた人間が、新しいコンセプトで、“新生”させれば、
全く異質なものに変貌するという良い事例です。
ところで、なんと今日、奇しくも代官山の聖ヶ丘教会・現牧師
Sookil Park先生から下記の“項目聖書”的なものが送られて
きました。
*************************
【クリスチャンの聖書 “緊急連絡網”】
① 危険に直面した時は - 詩編91編、121編に行ってください。
② 孤独な時、怖い時は - 詩編23編に行ってください。
③ 信仰と確信が必要な時は - ローマ8章1~30節に行ってください。
④ 平安と休息を願うなら - マタイ11章25~30節に行ってください。
⑤ 罪を犯した時は - 詩編51編に行ってください。
⑥ 憂いがある時は - マタイ福音書6章19~34節に行ってください。
⑦ 辛さと危機の中にいる時は - 第一コリント13章に行ってください。
⑧ いじめにあう時には - ローマ8章31節から37節に行ってください。
⑨ 仕事や旅行で家を離れている時は - 詩編121編に行ってください。
⑩ 信頼が必要な時は - ヘブル11章に行ってください。
⑪ 狭い利己的な心で祈りをする時は - 詩篇67編に行ってください。
⑫ 悲しい時には - ヨハネの福音書14章に行ってください。
⑬ 失望した時には - Ⅱコリント4章、詩篇27編に行ってください。
⑭ 神が遠くに感じられる時は - 詩編139編に行ってください。
⑮ 世の中が神より偉大に見える時は - 詩編90編に行ってください。
⑯ 実をたくさん結びたいなら - ヨハネによる福音書15章をどうぞ。
⑰ 意気消沈する時は - 詩編27編、34編に行ってください。
⑱ 世の中が小さく感じるなら - 詩編19編に行ってください。
⑲ お金がない時は - 詩編37編に行ってください。
⑳ 人々が不親切な時は - ヨハネの福音書15章に行ってください。
21 私がした事に落胆する時には - 詩編126編に行ってください。
22 非常に良い機会があれば - イザヤ55章に行ってください。
23 他の人と仲良く過ごしたいなら ー ローマ12章に行ってください。
24 祈りたい時は - ルカ11章、ヨハネ17章に行ってください。
25 疑いが起きた時には - ヘブライ11章に行ってください。
26 困難な状況になった時は - 詩編16編、31編に行ってください。
27 試練にあった時には - 詩編1編に行ってください。
28 疲れた時は ー マタイ11章28~30、詩編90編に行ってください。
29 病気または苦痛の時は - マタイ26:39、Ⅱコリント12章9、10、
ローマ5章3~5節、Ⅰペトロ4章12~13節に行ってください。
30 堕落しそうな時は - Ⅰヨハネ1章、詩編51編に行ってください。
Posted by アブラハムささき at 2013年02月19日 00:29
東京バブティストチャーチのデニス・フォールズ主任牧師は、すごいビジョンを持っているようです。
教会の地下を新しい地下鉄が通るように、新しい地下鉄の駅名が「東京バブティストチャーチ駅」になるようにと、神様に祈っているそうです。
教会の地下を新しい地下鉄が通るように、新しい地下鉄の駅名が「東京バブティストチャーチ駅」になるようにと、神様に祈っているそうです。
Posted by ヨーコ at 2013年02月19日 01:13
御言葉の連絡網は素晴らしいですね。
ともすれば、迷いの霧の中に入ってしまう私を、
導き出してくれます。感謝。
ともすれば、迷いの霧の中に入ってしまう私を、
導き出してくれます。感謝。
Posted by haru at 2013年02月20日 00:00
年を取ってくると昔がよかったと思い、つい古いものにこだわりがちになっていましたが、いつも新しいことをすべきなんだと気付きました。感謝!
Posted by 通行人 at 2013年02月20日 22:18
緊急連絡網 ありがとうございます。
コピーして配り歩きます。
一日感謝 !!
一生感謝 !
出会いに感謝 !
表参道 スタバより
コピーして配り歩きます。
一日感謝 !!
一生感謝 !
出会いに感謝 !
表参道 スタバより
Posted by forever at 2013年02月22日 15:22
聖書では新しいものは何もないと語っています。「日の下には新しいものは一つもない。『これを見よ。これは新しい。』と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか先の時代に、すでにあったものだ。」(伝道書1:9~10)と語っています。
人の成すことは時代が変わっても、場所が変わっても同じように繰り返されるだけで、何一つ新しいものはないということです。「新しいもの」は、それ自体が全く新しいものではなく、必ず過去において何かの形で成されたもので、歴史の中で人間が既に経験した事柄に過ぎないのです。
では、なぜ主はイザヤ書で「見よ。わたしは新しい事をする。」(イザヤ43:19)と語ったのでしょうか。主が語った「今、もう起ころうとしている新しい事」とは一体どんな事なのでしょうか。
それは「現状打破」ということです。過去や現在の状況を否定して、これを打ち破る形で、今までとは全く異なる状況を展開するというものです。
新しい事とは、現状の破壊と再生を伴います。今までは荒涼とした荒野であったが、主はこの荒野を打ち砕き、切り開いて道を造る。今までは雨も降らない乾き切った荒地であったが、主はこの荒地を切り崩し、開墾して水を引き、川を設ける。
神の天地創造においても、大いなる水の上にあった闇を、神は打ち破って「光よ。あれ。」と仰せになり、光を創造しました。次いで、形がなく、野の潅木も草もなく、一切何もない地上の世界を、神は打ち壊して、一つ一つ形あるものを創造しました。これは漆黒と静寂の闇に覆われた地上にとっては驚地動天、まさに破壊的で予想外の、後戻りの出来ない創造の業でした。
私たちの創造の業もこれと同じです。今までは野鳥の鳴き声が聞こえる閑静な穏やかな土地であったものが、この静かな環境を破壊して、新しいビルを建設し、新しいカフェバー、高級レストランをオープンさせて大勢の人が集まり、賑わうようになりました。しかし、もう二度と野鳥の鳴き声が聞こえる閑静な穏やかな土地に戻ることはありませんでした。
新しい事は、常に古いものに対峙するもので、現在の状況に対峙するものです。主もまたイザヤ書において「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。」(イザヤ43:18)と語って過去の事に対峙するものとして「見よ。わたしは新しい事をする」(イザヤ43:19)と語っています。
新しい事を始めるためには、一端過去や現状を否定することが求められます。今、行っている習慣も考え方も一端否定しないと新しい事は始められません。新しい事を始めるには覚悟が必要です。
例えば、赤字続きの会社が業績を回復しようとする場合、従来の経営を見直して経費を節減したり、人員整理を行ったり、資産を売却したり痛みを伴うリストラを進めながら、会社再建を図って新しい経営を目指します。
私たちクリスチャンの場合はどうでしょうか? 福音伝道にとっての「新しい事」や「リバイバル」とは何でしょうか?
私たちは、今まではさまざまな集会を開いて伝道してきました。大勢の人を集め、有名な先生を呼び、素晴しいメッセージが語られる集会を数多く開いてきました。その度に多くの人が救われ、信徒の数が増えてきて、クリスチャン人口も増加してきました。政治家や官僚、企業家の中には数多くのクリスチャンが占めるようになり、社会に影響を与えるようになりました。
このような中で、主が始められる「新しい事」とは一体何でしょうか。先の事を思い出さず、昔の事を考えない「新しい事」とはどういう事でしょうか。また、荒野に新しい道を設け、荒地にいのちの川を設けるとは一体どんなものでしょうか。
それは社会の片隅でひっそりと生きている弱い者、貧しい者、病ある者、悲しんでいる者に目を向けるということではないでしょうか。社会の狭間に埋もれている人々、社会の成長に取り残された人々、努力しようにも努力できない人々、うつ病で塞ぎこんでいる人々、病の中で戦っている人々、困窮と向き合って苦しんでいる人々、仕事がなく明日どうしょうかと悩んでいる人々・・・・
このような人々にもっと優しい目を向け、より積極的に繋がり、心から寄り添い、祈り合っていくことが必要ではないでしょうか。そこから今までとは全く違った、新しい福音伝道のうねりが起こされてくるように思います。
今や社会は、集団としてまとまって生きていく時代は去り、個人が中心となって生きていく時代となりました。個人と個人が繋ぐネットワークが社会や経済を活性化させています。今までのように大きな集会に大勢の人々を集めて伝道するには、時間も手間もかかりコストもかかるようになってきました。
こうした社会では、クリスチャン一人ひとりが弱い人達ともっと個人的に繋がり、毎日連絡を取り合い、相手の語ることにしっかり耳を傾け、自分の信仰を押し付けるのではなく相手を受け止め、求めに応じて御言葉を語り、祈り合うことがもっと重要です。
私たちは弱い立場の人々と寄り添いながら、心を静め合い、悲しみを分かち合い、聖書を教えるのではなく、静かに聖書を読んで聞かせる。相手の心を伺いながら【クリスチャンの聖書“緊急連絡網”】にあるような御言葉をそっと語って聞かせる。
日々の挨拶の中に小さな喜びを感じ、お互いの握手の中に励まし合いを感じる。何気ない語り合いの中で御言葉を語る。聖書の人物を語り合いながらこれからの生き方を学ぶ・・・・。こうした小さな繋がりや、ふと漏らした言葉、ちょっとしたしぐさをコツコツと積み重ねながら伝道していくことが必要ではないかと思います。
「新しい事」や「リバイバル」という言葉は、耳に良い響きを与える言葉ですが、本当に「新しい事」や「リバイバル」を願うのであれば、一端今までの生き方を否定し、打ち捨てることが必要です。そうすれば主は思いも寄らない、予想もしなかった新しい道を私たちに示してくださるでしょう。
またある役人が、イエスに質問して言った。「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかにはだれもありません。戒めはあなたもよく知っているはずです。『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母を敬え。』」
すると彼は言った。「そのようなことはみな、小さい時から守っております。」イエスはこれを聞いて、その人に言われた。「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
すると彼は、これを聞いて、非常に悲しんだ。たいへんな金持ちだったからである。イエスは彼を見てこう言われた。「裕福なものが神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
これを聞いた人々は言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう」。イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」(ルカ18:18~27)
人の成すことは時代が変わっても、場所が変わっても同じように繰り返されるだけで、何一つ新しいものはないということです。「新しいもの」は、それ自体が全く新しいものではなく、必ず過去において何かの形で成されたもので、歴史の中で人間が既に経験した事柄に過ぎないのです。
では、なぜ主はイザヤ書で「見よ。わたしは新しい事をする。」(イザヤ43:19)と語ったのでしょうか。主が語った「今、もう起ころうとしている新しい事」とは一体どんな事なのでしょうか。
それは「現状打破」ということです。過去や現在の状況を否定して、これを打ち破る形で、今までとは全く異なる状況を展開するというものです。
新しい事とは、現状の破壊と再生を伴います。今までは荒涼とした荒野であったが、主はこの荒野を打ち砕き、切り開いて道を造る。今までは雨も降らない乾き切った荒地であったが、主はこの荒地を切り崩し、開墾して水を引き、川を設ける。
神の天地創造においても、大いなる水の上にあった闇を、神は打ち破って「光よ。あれ。」と仰せになり、光を創造しました。次いで、形がなく、野の潅木も草もなく、一切何もない地上の世界を、神は打ち壊して、一つ一つ形あるものを創造しました。これは漆黒と静寂の闇に覆われた地上にとっては驚地動天、まさに破壊的で予想外の、後戻りの出来ない創造の業でした。
私たちの創造の業もこれと同じです。今までは野鳥の鳴き声が聞こえる閑静な穏やかな土地であったものが、この静かな環境を破壊して、新しいビルを建設し、新しいカフェバー、高級レストランをオープンさせて大勢の人が集まり、賑わうようになりました。しかし、もう二度と野鳥の鳴き声が聞こえる閑静な穏やかな土地に戻ることはありませんでした。
新しい事は、常に古いものに対峙するもので、現在の状況に対峙するものです。主もまたイザヤ書において「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。」(イザヤ43:18)と語って過去の事に対峙するものとして「見よ。わたしは新しい事をする」(イザヤ43:19)と語っています。
新しい事を始めるためには、一端過去や現状を否定することが求められます。今、行っている習慣も考え方も一端否定しないと新しい事は始められません。新しい事を始めるには覚悟が必要です。
例えば、赤字続きの会社が業績を回復しようとする場合、従来の経営を見直して経費を節減したり、人員整理を行ったり、資産を売却したり痛みを伴うリストラを進めながら、会社再建を図って新しい経営を目指します。
私たちクリスチャンの場合はどうでしょうか? 福音伝道にとっての「新しい事」や「リバイバル」とは何でしょうか?
私たちは、今まではさまざまな集会を開いて伝道してきました。大勢の人を集め、有名な先生を呼び、素晴しいメッセージが語られる集会を数多く開いてきました。その度に多くの人が救われ、信徒の数が増えてきて、クリスチャン人口も増加してきました。政治家や官僚、企業家の中には数多くのクリスチャンが占めるようになり、社会に影響を与えるようになりました。
このような中で、主が始められる「新しい事」とは一体何でしょうか。先の事を思い出さず、昔の事を考えない「新しい事」とはどういう事でしょうか。また、荒野に新しい道を設け、荒地にいのちの川を設けるとは一体どんなものでしょうか。
それは社会の片隅でひっそりと生きている弱い者、貧しい者、病ある者、悲しんでいる者に目を向けるということではないでしょうか。社会の狭間に埋もれている人々、社会の成長に取り残された人々、努力しようにも努力できない人々、うつ病で塞ぎこんでいる人々、病の中で戦っている人々、困窮と向き合って苦しんでいる人々、仕事がなく明日どうしょうかと悩んでいる人々・・・・
このような人々にもっと優しい目を向け、より積極的に繋がり、心から寄り添い、祈り合っていくことが必要ではないでしょうか。そこから今までとは全く違った、新しい福音伝道のうねりが起こされてくるように思います。
今や社会は、集団としてまとまって生きていく時代は去り、個人が中心となって生きていく時代となりました。個人と個人が繋ぐネットワークが社会や経済を活性化させています。今までのように大きな集会に大勢の人々を集めて伝道するには、時間も手間もかかりコストもかかるようになってきました。
こうした社会では、クリスチャン一人ひとりが弱い人達ともっと個人的に繋がり、毎日連絡を取り合い、相手の語ることにしっかり耳を傾け、自分の信仰を押し付けるのではなく相手を受け止め、求めに応じて御言葉を語り、祈り合うことがもっと重要です。
私たちは弱い立場の人々と寄り添いながら、心を静め合い、悲しみを分かち合い、聖書を教えるのではなく、静かに聖書を読んで聞かせる。相手の心を伺いながら【クリスチャンの聖書“緊急連絡網”】にあるような御言葉をそっと語って聞かせる。
日々の挨拶の中に小さな喜びを感じ、お互いの握手の中に励まし合いを感じる。何気ない語り合いの中で御言葉を語る。聖書の人物を語り合いながらこれからの生き方を学ぶ・・・・。こうした小さな繋がりや、ふと漏らした言葉、ちょっとしたしぐさをコツコツと積み重ねながら伝道していくことが必要ではないかと思います。
「新しい事」や「リバイバル」という言葉は、耳に良い響きを与える言葉ですが、本当に「新しい事」や「リバイバル」を願うのであれば、一端今までの生き方を否定し、打ち捨てることが必要です。そうすれば主は思いも寄らない、予想もしなかった新しい道を私たちに示してくださるでしょう。
またある役人が、イエスに質問して言った。「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかにはだれもありません。戒めはあなたもよく知っているはずです。『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母を敬え。』」
すると彼は言った。「そのようなことはみな、小さい時から守っております。」イエスはこれを聞いて、その人に言われた。「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
すると彼は、これを聞いて、非常に悲しんだ。たいへんな金持ちだったからである。イエスは彼を見てこう言われた。「裕福なものが神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
これを聞いた人々は言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう」。イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」(ルカ18:18~27)
Posted by 名も亡き者 at 2013年02月25日 17:11
高校で世界史を勉強して、
たぶん誰もが感じることなのでしょうけれど、
まさに「栄枯盛衰」「歴史は繰り返す」と感じました。
観覧車のように、車だけが登っては降り、
人は入れ替わって戻ることのない・・。
不思議でした。
言葉も、外見も、文化も違うのに、
似たようなこと・・血で血を洗う争いの連続・・。
どの国も、地域も・・。
子どもの頃、ヒロシマ・ナガサキの話を聞き、
次に戦争が起こるときは、
たぶん誰も生き残らないだろうな・・と思いました。
どうしてなのだろう・・と、ずっと思ってきました。
どうしたら良いのだろう・・と・・。
「パスカルの人」のお母様が送ってみえたという
「Old Turtle」という絵本を読ませていただいたことがあります。
色々な動物が、それぞれの長所を自慢し、
「自分が一番!」と言っては、
自分と違う動物を否定し争いあうのを、
年老いた亀が諫める、という内容だったと思います。
「宗教の存在が戦争の原因だ。」という考え方がありますが、
個人的には疑問です。
「宗教戦争の本質は、経済戦争だ。」というのは、
ある程度そうだろうな・・と思います。
でも、本当のところは、
きっと私を含めた、一人一人の心の中にある「火種」、
驕り、貪欲、妬み・・そういうものが恨み、疑い、怒り、不安を生み、
人と人の間を、果てしなく破壊していくからなのではないか、と思います。
国レベルでも、職場や家庭レベルでも・・。
一人一人の心の飢え、渇き、なのかもしれませんね・・。
たぶん誰もが感じることなのでしょうけれど、
まさに「栄枯盛衰」「歴史は繰り返す」と感じました。
観覧車のように、車だけが登っては降り、
人は入れ替わって戻ることのない・・。
不思議でした。
言葉も、外見も、文化も違うのに、
似たようなこと・・血で血を洗う争いの連続・・。
どの国も、地域も・・。
子どもの頃、ヒロシマ・ナガサキの話を聞き、
次に戦争が起こるときは、
たぶん誰も生き残らないだろうな・・と思いました。
どうしてなのだろう・・と、ずっと思ってきました。
どうしたら良いのだろう・・と・・。
「パスカルの人」のお母様が送ってみえたという
「Old Turtle」という絵本を読ませていただいたことがあります。
色々な動物が、それぞれの長所を自慢し、
「自分が一番!」と言っては、
自分と違う動物を否定し争いあうのを、
年老いた亀が諫める、という内容だったと思います。
「宗教の存在が戦争の原因だ。」という考え方がありますが、
個人的には疑問です。
「宗教戦争の本質は、経済戦争だ。」というのは、
ある程度そうだろうな・・と思います。
でも、本当のところは、
きっと私を含めた、一人一人の心の中にある「火種」、
驕り、貪欲、妬み・・そういうものが恨み、疑い、怒り、不安を生み、
人と人の間を、果てしなく破壊していくからなのではないか、と思います。
国レベルでも、職場や家庭レベルでも・・。
一人一人の心の飢え、渇き、なのかもしれませんね・・。
Posted by haru at 2013年03月14日 01:11
私は政治に、
市民・投票者以外の立場で関わりたくありませんが、
権威を憎むことによってでなく、
平和を愛すること、
神を見上げ、身近な人を愛するよう努力していくことが、
平和を創る一員となることのように、思います・・。
市民・投票者以外の立場で関わりたくありませんが、
権威を憎むことによってでなく、
平和を愛すること、
神を見上げ、身近な人を愛するよう努力していくことが、
平和を創る一員となることのように、思います・・。
Posted by haru at 2013年03月14日 22:11
聖書にある「この時代には、『ヨナのしるし』しか与えない。」という言葉、
そして、「神の愚かさは人の賢さより賢い。」という言葉、
色々と考えさせられています・・。
そして、「神の愚かさは人の賢さより賢い。」という言葉、
色々と考えさせられています・・。
Posted by haru at 2013年03月14日 23:23
最近、NHKで見た番組の中で聞いた、
「地球というのは、薄い可住域で覆われた、巨大な火の玉です。」
という言葉が、頭から離れません・・。
聖書に、「神を畏れることが知恵の始め。聖なる方を知ることは悟り。」
「あなたの若い日に、自分の創造者を覚えよ。
後の日に、何の喜びもない、と言わなくて良いように・・。」とありますが、
私は思うのです。
人間も、地球も、思ったより脆いもの、儚いものであることを知ることが、
知恵の始めなのではないかと・・。
また、人間同士の、労わりや愛の始めではないかと・・。
これだけ兵器が発達してしまった時代・・。
マネー原理で突き進む経済最優先・・。
これは私の考えですが、創造主である神でない以上、人間の完全管理が不可能な自然から、
手痛い反発を受け、行き過ぎた不均衡と争いを生み、
過熱競争の中での自然破壊、結果としての人類破滅が待っているように、思えます・・。
「高慢は破れに先立つ。」と聖書が警告しているように・・。
私は共産主義を信奉している訳ではありません。
一方、資本主義を信奉している訳でもありません。
どちらも一長一短、そして限界があると、感じています・・。
結局、一人一人が、創造主であるイエス様の絶対的愛と赦しを信じ、罪を悔い改めて、
周囲を攻め呪うのでなく、愛し祝福していくことだけが、
効率は悪いように見えても、最善の、
神様の知恵であり、愛なのだろうな・・と思い始めています・・。
主に聴いて、できるところから努力していきたいです。
「地球というのは、薄い可住域で覆われた、巨大な火の玉です。」
という言葉が、頭から離れません・・。
聖書に、「神を畏れることが知恵の始め。聖なる方を知ることは悟り。」
「あなたの若い日に、自分の創造者を覚えよ。
後の日に、何の喜びもない、と言わなくて良いように・・。」とありますが、
私は思うのです。
人間も、地球も、思ったより脆いもの、儚いものであることを知ることが、
知恵の始めなのではないかと・・。
また、人間同士の、労わりや愛の始めではないかと・・。
これだけ兵器が発達してしまった時代・・。
マネー原理で突き進む経済最優先・・。
これは私の考えですが、創造主である神でない以上、人間の完全管理が不可能な自然から、
手痛い反発を受け、行き過ぎた不均衡と争いを生み、
過熱競争の中での自然破壊、結果としての人類破滅が待っているように、思えます・・。
「高慢は破れに先立つ。」と聖書が警告しているように・・。
私は共産主義を信奉している訳ではありません。
一方、資本主義を信奉している訳でもありません。
どちらも一長一短、そして限界があると、感じています・・。
結局、一人一人が、創造主であるイエス様の絶対的愛と赦しを信じ、罪を悔い改めて、
周囲を攻め呪うのでなく、愛し祝福していくことだけが、
効率は悪いように見えても、最善の、
神様の知恵であり、愛なのだろうな・・と思い始めています・・。
主に聴いて、できるところから努力していきたいです。
Posted by haru at 2013年04月13日 01:21
「 たとえ全世界を手に入れたとしても、
まことの命を損じたら、なんの得があるでしょう。 」
聖書の言葉を、改めて思わされています。
肉体の命は、死亡率100%ですが、
神が悔い改める者に下さる「まことの命」は、
永遠の、神と人の平和と喜びなのですね・・。
主を頼りに、希望をもって、歩み通したいです。
まことの命を損じたら、なんの得があるでしょう。 」
聖書の言葉を、改めて思わされています。
肉体の命は、死亡率100%ですが、
神が悔い改める者に下さる「まことの命」は、
永遠の、神と人の平和と喜びなのですね・・。
主を頼りに、希望をもって、歩み通したいです。
Posted by haru at 2013年04月14日 23:50
IT業界でデザイナーの仕事をしておりますが、スモール・デザイナーという言葉が気に入りました。神が最高のデザイナーであり、自分は神の遺伝子を受け継いでいるスモール・デザイナーであるということは新しい気づきでありました。天のお父さんに喜んでいただけるようなデザイナーを目指したいと思いました。
Posted by スモール・デザイナー at 2013年06月13日 15:59
>神のなさることは、 なんと時にかなって美しいのであろうか!
この場合事を成したのは神ではなく蔦屋書店でしょう。
この場合事を成したのは神ではなく蔦屋書店でしょう。
Posted by 釣本直紀 at 2014年01月02日 21:24
今日一日を振り返って自分は何か新しいことにチャレンジしただろうかと考えます。特になかったです。このところマンネリ状態です。しかしマンネリを打破するのは自分の意志です。神様も、見よ、わたしは新しいことをなす!とご自分の意志を宣言しています。ならば自分も強い意志をもって新しいことにチャレンジいなければなりません。明日こそ新しいことをやってみます。
Posted by 石男 at 2014年09月17日 00:11