2012年12月14日
「笑顔の効果」
このところ世相を反映してか、
刑事事件を受任することが多くなった。
誰にとっても深刻な刑事問題を扱っていると、
いつも緊張していてどうしても顔がこわばってくる。
笑ったりすれば、無責任、不誠実だと思ってしまう。
でも、あまり生真面目に取り組みすぎると
問題解決そのものが非常に難しくなってしまう。
考え過ぎて、正しい決断できなくなるからだ。
ある事件で関係者の意見が分かれて長い間、暗礁に乗り上げてしまった。
そこで、たまには事件のことを忘れて楽しく過ごそうと
弁護士を含む関係者を集めて小さなパーティが行われた。
歌をうたったり、ワインを飲んだりして、しばらくはなごやかに過ごした。
いよいよ食事の時間になったら、自然に事件のことが話題になった。
でも、楽しい雰囲気の中だったので、
みんな笑顔で冗談を言い合いながら、
深刻な問題を話すことができた。
「こんなに面白い事件はない!
ぜひ、これを本にして出版しよう!」
「本がベストセラーになったら、映画を作ろう!」
「そうだ、そうだ! ヒット間違いない!」
「主演俳優は00さんがいいよ!」
笑いながら本や映画の話に夢中になっているうちに、
関係者全員の事件の方針が自然に一致してしまった。
おかげで、私の笑顔も戻ってきた。
< 下記はブログの読者・菅野直基牧師のフェイスブックの記事です >
おはようございます。
外は青空がまぶしいくらいです。
笑顔で笑っているようです。
「笑顔」 は 「相手に好感を与えるための手段」 と思っていませんか?
笑顔には、 「相手の警戒心を取り除き」 「親しみを感じさせる効果」 がありますが、
一番の効果は、 「自分を幸せにする」 ことです。
「笑う」 と、顔を若くさせる筋肉が働きます。
また 「笑う」 と、体を健康にするホルモンが分泌されます。
笑いは、 「作り笑い」 「ウソ笑い」 でも同じ効果があるのです。
そうであるなら、無理しても 「笑顔」 を作った方が得ですよね。
聖書の中には、イエス・キリストが 「笑った」 という記述が
一箇所もないので、ある神学者はこう言いました。
「イエス・キリストでさえ笑ったことがないのだから、
クリスチャンは笑うべきではない!」
私は逆だと思います。
キリストはいつも笑顔で笑っていたので、
あえて 「キリストが笑った」 と書く必要がなかったと思います。
反対に、 「イエスが涙を流された」 「キリストが怒った」 と書かれているのは、
珍しい光景だったからです。
あなたは、いつも 「笑って」 いますか?
「笑顔」 ですか? 笑いは、あなた自身を幸せにし、
アンチエイジングを促進させ、心と体を健康にしてくれます。
・・・ 主がシオンの繁栄を元どおりにされたとき、
私たちは夢を見ている者のようであった。
そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、
私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。
そのとき、国々の間で、人々は言った。
「主は彼らのために大いなることをなされた」
(詩篇126:1~2)
Posted by アブラハムささき at 01:50│Comments(10)
この記事へのコメント
素晴らしいですね。クリスチャンが笑うべきではないと言った神学者の方がいるのは初めて知りました(笑)
Posted by ナミキ at 2012年12月14日 08:42
ささき先生
コラボになり感謝致します。
笑いは奇跡を起こすのですね。
ついでに、もう一つコラボさせて頂きます。
「インターネット・オフ会」のご案内です。
★第一回東京オフ会
2012年12月14日(金)一部は午後2時~5時、二部は夕方6時~夜8時頃まで。
場所:ジョナサン大久保店
会費:飲食代の実費
東京都新宿区百人町1丁目17-8 JR大久保駅[北口]から徒歩約2分 03-5332-3815
オフ会に参加を希望する方は、念のためメールで連絡をお願いします。
メール rev-kanno@softbank.ne.jp
お忙しい中ですが、万障繰り合わせてご参集下されば幸いです。
「行きたい」けど、明日参加できない人は・・・。
まだオフ会のチャンスはあります。
★第二回東京オフ会
2012年12月21日(金)夕方6時頃~夜8時頃まで。
場所:ジョナサン大久保店
会費:飲食代の実費
東京都新宿区百人町1丁目17-8 JR大久保駅[北口]から徒歩約2分 03-5332-3815
★第一回大阪オフ会
2013年1月22日(火)午後2時から夕方位まで。
場所:かごの屋 清水谷高校前店
会費:飲食代の実費
大阪市中央区上町1-7-5 JR玉造駅から徒歩約5分 06-4304-5711
コラボになり感謝致します。
笑いは奇跡を起こすのですね。
ついでに、もう一つコラボさせて頂きます。
「インターネット・オフ会」のご案内です。
★第一回東京オフ会
2012年12月14日(金)一部は午後2時~5時、二部は夕方6時~夜8時頃まで。
場所:ジョナサン大久保店
会費:飲食代の実費
東京都新宿区百人町1丁目17-8 JR大久保駅[北口]から徒歩約2分 03-5332-3815
オフ会に参加を希望する方は、念のためメールで連絡をお願いします。
メール rev-kanno@softbank.ne.jp
お忙しい中ですが、万障繰り合わせてご参集下されば幸いです。
「行きたい」けど、明日参加できない人は・・・。
まだオフ会のチャンスはあります。
★第二回東京オフ会
2012年12月21日(金)夕方6時頃~夜8時頃まで。
場所:ジョナサン大久保店
会費:飲食代の実費
東京都新宿区百人町1丁目17-8 JR大久保駅[北口]から徒歩約2分 03-5332-3815
★第一回大阪オフ会
2013年1月22日(火)午後2時から夕方位まで。
場所:かごの屋 清水谷高校前店
会費:飲食代の実費
大阪市中央区上町1-7-5 JR玉造駅から徒歩約5分 06-4304-5711
Posted by パスター菅野 at 2012年12月14日 09:05
聖書には、イエス様の笑った記述がないことは気づきませんでした。
案外、伝統的日本人の本来の気質にピッタリなのでは。
よく知りませんが、日本の武士道に笑いの記述はあまり似合わない?。
ところで聖書では創世記21章6節
「神は私に笑いをお与えになった。聞くものは皆、私と笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう。」
神様はいつも私たちを覚えていてくださり、心のうちから笑いがこみ上げるような祝福を,奇跡を与えたいと思っておられます。感謝です。
そんな時はイエスさまも本当は一緒に笑っていて下さっている。
佐々木先生の現実と聖書の御言葉をリンクさせる深ーいお話、感謝です。
案外、伝統的日本人の本来の気質にピッタリなのでは。
よく知りませんが、日本の武士道に笑いの記述はあまり似合わない?。
ところで聖書では創世記21章6節
「神は私に笑いをお与えになった。聞くものは皆、私と笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう。」
神様はいつも私たちを覚えていてくださり、心のうちから笑いがこみ上げるような祝福を,奇跡を与えたいと思っておられます。感謝です。
そんな時はイエスさまも本当は一緒に笑っていて下さっている。
佐々木先生の現実と聖書の御言葉をリンクさせる深ーいお話、感謝です。
Posted by ななし at 2012年12月15日 00:06
「笑いのない一日は人生最大の損失だ」 というフランスの諺があるそうです。
苦しい時や悲しい時にあえて笑うことは、苦しみや悲しみを超越して、神さまにすべてをゆだねるということでもありますね。
苦しみや悲しみの中に自分を追い込んでいくのではなく、笑いによって神の世界に自分を引き上げていくという意味もあると思います。
苦しい時や悲しい時にあえて笑うことは、苦しみや悲しみを超越して、神さまにすべてをゆだねるということでもありますね。
苦しみや悲しみの中に自分を追い込んでいくのではなく、笑いによって神の世界に自分を引き上げていくという意味もあると思います。
Posted by スマイル at 2012年12月15日 14:54
頭で「信じなければ!」と力み、焦るのでなく、ただ心から主を信頼していると、自然に笑みが浮かぶのですよね。生きても死んでも、主の御手の中であることを忘れなければ・・。どうしても力んでしまう自分の中に、不信仰があるのだと気づかされました。
目を高く上げて、誰がこの宇宙を創ってくださったのか、その神様が、一番大切な御子をさえ与えてくださるほど、全ての人を愛しておられ、私もその中の一人なのだ、という事実を、世界や社会が波立つ中でも、忘れたくないです。
目を高く上げて、誰がこの宇宙を創ってくださったのか、その神様が、一番大切な御子をさえ与えてくださるほど、全ての人を愛しておられ、私もその中の一人なのだ、という事実を、世界や社会が波立つ中でも、忘れたくないです。
Posted by haru at 2012年12月15日 22:52
信仰を持つことで得る安心や希望と共に、なぜかある不安の原因が、自分ではなかなか分かりませんでしたが、ある牧師先生とのやりとりを通して、やっと分かりました。私は、自分の「存在意義」を造ろうと、躍起になっているのだと・・。
「神の友」と言われたアブラハムの話をされました。アブラハムは、マザーテレサのように慈善活動に身を捧げた人でもなく、キング牧師のように正義のために立ち上がった人でもなく、ただ、神様から与えられた自分の人生を、信仰と希望と愛をもって、誠実に生きた人でしたよ、と。
「何かしなくては信仰者とは言えない!」と、いつの間にか思っていました。いつも焦りと不安が心を占めるようになりました。現実は、両親を放って好きなところに行けるわけでもなく、ジレンマの中で憔悴してしまいました。やっと、自分に与えられているこの小さな人生を、誠実に生きることが、神が喜ばれることなのだと思って良いと分かり、安心できました。
私もそうですが、友人といっても、それぞれの人生の悩みや、まだ解消できていない痛みをもっていたりで、いつの間にか「ヨブの友人」になってしまいます。そんな中、ちょっと距離を置いて、アドバイスしてくださる信仰の先輩方との交わりを、感謝します。
「神の友」と言われたアブラハムの話をされました。アブラハムは、マザーテレサのように慈善活動に身を捧げた人でもなく、キング牧師のように正義のために立ち上がった人でもなく、ただ、神様から与えられた自分の人生を、信仰と希望と愛をもって、誠実に生きた人でしたよ、と。
「何かしなくては信仰者とは言えない!」と、いつの間にか思っていました。いつも焦りと不安が心を占めるようになりました。現実は、両親を放って好きなところに行けるわけでもなく、ジレンマの中で憔悴してしまいました。やっと、自分に与えられているこの小さな人生を、誠実に生きることが、神が喜ばれることなのだと思って良いと分かり、安心できました。
私もそうですが、友人といっても、それぞれの人生の悩みや、まだ解消できていない痛みをもっていたりで、いつの間にか「ヨブの友人」になってしまいます。そんな中、ちょっと距離を置いて、アドバイスしてくださる信仰の先輩方との交わりを、感謝します。
Posted by haru at 2012年12月18日 15:14
聖書ではイエス様が笑ったことについて何も書かれていません。しかし、聖霊に導かれて新約聖書を読んでいくと、イエス様は笑わなかったのではなく、笑えなかったということが分かります。それは、当時の社会が笑えない状況にあったからです。
イエス様が接した人々は社会から見捨てられた人々、経済的に極めて低い階層の人々、迷信と病に苦しめられている人々でした。イエス様は、貧困にあえぎながら、病に苦しめられ、差別を受けながらも、その日を何とか食いつないでいる悲惨な民衆の姿を目の当たりにして、笑えるような状態ではありませんでした。まさに彼らは、羊飼いのいない羊のような人たちでした。
それに加えて、当時の社会は徹底した格差社会でした。エルサレムでは神殿税(十一献金)が支払える富裕層や祭司、律法学者、パリサイ人などの宗教既得権者たちが多く住んでいました。
そのため神殿税が支払えない低所得者や収入のない病人、障害者、寡婦、老人などはエルサレムに留まることが出来ず、北方のガリラヤ湖周辺に移動して住んでいました。
この地方は気候が穏やかで、山の幸や湖の幸もあり何とか食べていける環境でした。同じような境遇の人々が山間や谷間、湖畔に点在しながら小さなグループを作り、肩を寄せ合って住んでいました。
エルサレムを中心とする宗教既得権者は、すでに民衆の信頼も、民を救う力も失っており、世俗化したものになっていました。祭司や律法学者などは本来の立場を失って、民衆に擦り寄って寄生し、経済的に搾取することしか考えていませんでした。
彼らは民衆の心を引きつけようと、公の場で朗々と祈って見せたり、長い衣をまとって見栄えを良くして街中を歩き回ったり、民衆にへつらって挨拶を求めたり、献金箱に多額の献金を入れて厚い信仰心を人々に見せることに徹底していました。
厳格な律法主義者、貪欲で無慈悲な偽善者、パリサイ人は形式化した律法を民衆に押し付けて自らの地位を何とか保っていました。民衆はローマに支払う税金、神殿に納める神殿税や贖い金(半シェケル)、奉納物などに苦しめられ、経済的にも困窮し、困難な生活を強いられていました。
お金がすべてのエルサレムに住むことができなくなった貧しい民衆は、エルサレムを出るしかありませんでした。このため、エルサレムを追われてガリラヤ湖周辺に住んでいる人々は、エルサレムに対して根深い不満を持ち、形式主義化した律法に反発し絶望を感じながらも、民衆を救ってくれる救い主(メシヤ)が現れることを心から待ち望んでいました。
「救い主(メシヤ)がやって来て自分たちを救ってくださる。神の国を建設して、ダビデが再び王となって私たちを治めてくださる。病人が癒され、元気になり生活も良くなる」と強く信じていました。
このような社会的に行き詰った閉塞した状況の中で、イエス様は福音を語られたのでした。当時の人々は、イエス様が語る言葉に生きている神の権威を感じました。イエス様が語る言葉は今まで聞いたことがないほど力強く威厳があり、律法学者が語るような退屈なものではありませんでした。
民衆の救いを求める思いが切実なものであればあるほど、イエス様が語る言葉も強烈なものでした。イエス様の伝道はそれほど真剣で、いのち懸けのものでした。決して笑顔で語れるようなものではありませんでした。
貧困や病い、格差や差別に苦しめられ、排除された絶望に引きずられていた民衆にとって「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところへ来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)のイエス様の言葉は、渇いた魂に注がれた清水のようでした。
また、祭司やパリサイ人たちの行いよって打ちひしがれた彼らの心も、イエス様が語る神の愛によって完全に癒され、次第に元気を取り戻し、希望によみがえっていくのでした。
イエス様が伝道する期間は限られていたため、あらゆる場所に行って、多くの人々に福音を伝えなければならないという強い衝動がイエス様を突き動かしていました。イエス様は当初から3年間の期限付の伝道を展開していました。
神のいのちを伝えることは笑いながらで出来るものではありません。どんな宗教でも、その宗教の本質や真理を伝えたり、民衆にいのちを吹き込む場合は、笑いは一切ありません。まさに、いのちを燃焼させる真剣勝負です。極度の緊張関係、真摯に向き合う関係からしかいのちの伝達は生まれてきません。笑顔で接するならば、笑顔の範囲だけしか返ってきません。
古今東西、笑い顔から魂の輝きを見ることはできず、魂を共感させるいのちの鼓動も感じられません。仏像のいのちは顔だと仏教徒は語ります。それは、口を真一文字にした正顔の中に仏教徒はいのちを感じるのだと言います。伝道の書も「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。悲しみは笑いにまさる。顔の曇りによって心は良くなる」(伝道の書7:2~3)と語ります。
ちなみに、霊的には、笑い、とくに高笑いは霊気の漏れたふ抜けの状態を指します。この結果、当然のことながら注意力散漫、集中力減退、洞察力の欠如、忍耐力の衰退などを招きます。しかし、精神的や肉体的には心地よい響きを与えますので、大変良好となります。
外典の手紙では、「誰もイエス・キリストが大笑いするのを見なかったが、多くの人は泣くのを見た」と語ってイエス様の厳しい伝道の様子を伝えています。イエス様は泣きながら、悲しみながら、祈りながら悲惨な民衆に向かって神の言葉を語ったのでした。イエス様は人として感じる笑いを捨てて、泣くものと共に泣き、悲しむものと共に悲しみ、父なる神と共に祈る日々を過ごしました。イエス様のこの世の最後の言葉は「完了した」(ヨハネ19:30)という短い言葉でした。
イエス様が接した人々は社会から見捨てられた人々、経済的に極めて低い階層の人々、迷信と病に苦しめられている人々でした。イエス様は、貧困にあえぎながら、病に苦しめられ、差別を受けながらも、その日を何とか食いつないでいる悲惨な民衆の姿を目の当たりにして、笑えるような状態ではありませんでした。まさに彼らは、羊飼いのいない羊のような人たちでした。
それに加えて、当時の社会は徹底した格差社会でした。エルサレムでは神殿税(十一献金)が支払える富裕層や祭司、律法学者、パリサイ人などの宗教既得権者たちが多く住んでいました。
そのため神殿税が支払えない低所得者や収入のない病人、障害者、寡婦、老人などはエルサレムに留まることが出来ず、北方のガリラヤ湖周辺に移動して住んでいました。
この地方は気候が穏やかで、山の幸や湖の幸もあり何とか食べていける環境でした。同じような境遇の人々が山間や谷間、湖畔に点在しながら小さなグループを作り、肩を寄せ合って住んでいました。
エルサレムを中心とする宗教既得権者は、すでに民衆の信頼も、民を救う力も失っており、世俗化したものになっていました。祭司や律法学者などは本来の立場を失って、民衆に擦り寄って寄生し、経済的に搾取することしか考えていませんでした。
彼らは民衆の心を引きつけようと、公の場で朗々と祈って見せたり、長い衣をまとって見栄えを良くして街中を歩き回ったり、民衆にへつらって挨拶を求めたり、献金箱に多額の献金を入れて厚い信仰心を人々に見せることに徹底していました。
厳格な律法主義者、貪欲で無慈悲な偽善者、パリサイ人は形式化した律法を民衆に押し付けて自らの地位を何とか保っていました。民衆はローマに支払う税金、神殿に納める神殿税や贖い金(半シェケル)、奉納物などに苦しめられ、経済的にも困窮し、困難な生活を強いられていました。
お金がすべてのエルサレムに住むことができなくなった貧しい民衆は、エルサレムを出るしかありませんでした。このため、エルサレムを追われてガリラヤ湖周辺に住んでいる人々は、エルサレムに対して根深い不満を持ち、形式主義化した律法に反発し絶望を感じながらも、民衆を救ってくれる救い主(メシヤ)が現れることを心から待ち望んでいました。
「救い主(メシヤ)がやって来て自分たちを救ってくださる。神の国を建設して、ダビデが再び王となって私たちを治めてくださる。病人が癒され、元気になり生活も良くなる」と強く信じていました。
このような社会的に行き詰った閉塞した状況の中で、イエス様は福音を語られたのでした。当時の人々は、イエス様が語る言葉に生きている神の権威を感じました。イエス様が語る言葉は今まで聞いたことがないほど力強く威厳があり、律法学者が語るような退屈なものではありませんでした。
民衆の救いを求める思いが切実なものであればあるほど、イエス様が語る言葉も強烈なものでした。イエス様の伝道はそれほど真剣で、いのち懸けのものでした。決して笑顔で語れるようなものではありませんでした。
貧困や病い、格差や差別に苦しめられ、排除された絶望に引きずられていた民衆にとって「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところへ来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)のイエス様の言葉は、渇いた魂に注がれた清水のようでした。
また、祭司やパリサイ人たちの行いよって打ちひしがれた彼らの心も、イエス様が語る神の愛によって完全に癒され、次第に元気を取り戻し、希望によみがえっていくのでした。
イエス様が伝道する期間は限られていたため、あらゆる場所に行って、多くの人々に福音を伝えなければならないという強い衝動がイエス様を突き動かしていました。イエス様は当初から3年間の期限付の伝道を展開していました。
神のいのちを伝えることは笑いながらで出来るものではありません。どんな宗教でも、その宗教の本質や真理を伝えたり、民衆にいのちを吹き込む場合は、笑いは一切ありません。まさに、いのちを燃焼させる真剣勝負です。極度の緊張関係、真摯に向き合う関係からしかいのちの伝達は生まれてきません。笑顔で接するならば、笑顔の範囲だけしか返ってきません。
古今東西、笑い顔から魂の輝きを見ることはできず、魂を共感させるいのちの鼓動も感じられません。仏像のいのちは顔だと仏教徒は語ります。それは、口を真一文字にした正顔の中に仏教徒はいのちを感じるのだと言います。伝道の書も「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。悲しみは笑いにまさる。顔の曇りによって心は良くなる」(伝道の書7:2~3)と語ります。
ちなみに、霊的には、笑い、とくに高笑いは霊気の漏れたふ抜けの状態を指します。この結果、当然のことながら注意力散漫、集中力減退、洞察力の欠如、忍耐力の衰退などを招きます。しかし、精神的や肉体的には心地よい響きを与えますので、大変良好となります。
外典の手紙では、「誰もイエス・キリストが大笑いするのを見なかったが、多くの人は泣くのを見た」と語ってイエス様の厳しい伝道の様子を伝えています。イエス様は泣きながら、悲しみながら、祈りながら悲惨な民衆に向かって神の言葉を語ったのでした。イエス様は人として感じる笑いを捨てて、泣くものと共に泣き、悲しむものと共に悲しみ、父なる神と共に祈る日々を過ごしました。イエス様のこの世の最後の言葉は「完了した」(ヨハネ19:30)という短い言葉でした。
Posted by 名も亡き者 at 2012年12月19日 17:21
苦しい時は、「苦しい・・。腹が立つ・・。悲しい・・。」としか思えませんが、後で思うと、あの苦しみ・悩みがあったからこそ多くのことを学ばせていただいたのだ!と気づかされます。神様のご計画として・・。
笑ったこと、心からの喜びとしてでなく、その場の雰囲気に合わせて笑っていただけの頃は、たしかに霊的には死んでいた・・と今、思わされています。・・ということは、今の曇りがちの私も、未来の自分から見れば、「あれで良かったんだ!」と喜べるようになるのだ!と、名も亡き者さんのメッセージを読んで思いました。ありがとうございます。
イエス様が、この世界、社会、私のこれまでの不誠実な歩みを見られた時、喜びよりは、悲しみを感じると、私も思います。自己中心という罪からくる様々な醜い思いや出来事に・・。
山谷で奉仕しておられる森本先生も、ホームレスに追い込まれた方々、かつて高速道路や新幹線等、経済大国の土台を造った方々の窮状を嘆いておられますね。私も、非正規雇用を体験して、「あぁ、人間ももう使い捨ての時代になったのだ・・。」と実感しました。でも、そういう現実を体験したことで、人の痛みを想像する土台をいただいたことを、時間はかかってしまいましたが、神に感謝します。正規雇用の頃、自分の理想ばかりを追いかける間に、迷惑をかけてしまった方への謝罪に合わせて・・。
笑ったこと、心からの喜びとしてでなく、その場の雰囲気に合わせて笑っていただけの頃は、たしかに霊的には死んでいた・・と今、思わされています。・・ということは、今の曇りがちの私も、未来の自分から見れば、「あれで良かったんだ!」と喜べるようになるのだ!と、名も亡き者さんのメッセージを読んで思いました。ありがとうございます。
イエス様が、この世界、社会、私のこれまでの不誠実な歩みを見られた時、喜びよりは、悲しみを感じると、私も思います。自己中心という罪からくる様々な醜い思いや出来事に・・。
山谷で奉仕しておられる森本先生も、ホームレスに追い込まれた方々、かつて高速道路や新幹線等、経済大国の土台を造った方々の窮状を嘆いておられますね。私も、非正規雇用を体験して、「あぁ、人間ももう使い捨ての時代になったのだ・・。」と実感しました。でも、そういう現実を体験したことで、人の痛みを想像する土台をいただいたことを、時間はかかってしまいましたが、神に感謝します。正規雇用の頃、自分の理想ばかりを追いかける間に、迷惑をかけてしまった方への謝罪に合わせて・・。
Posted by haru at 2012年12月20日 01:38
われをも救いし くしき恵み
まよいし身も今 立ち帰りぬ
おそれを信仰に 変えたまいし
わが主のみ恵み げに尊し
苦しみ悩みも くしき恵み
今日まで守りし 主にぞ任せん
わが主のみ誓い 永久にかたし
主こそは わが盾 わが命ぞ
この身は衰え 世を去るとき
喜びあふるる 御国に生きん
・・・第二賛美歌167、
Amazing Graceの歌詞が、
本当に心に響きます。
皆様、良いクリスマスをお迎えください。
まよいし身も今 立ち帰りぬ
おそれを信仰に 変えたまいし
わが主のみ恵み げに尊し
苦しみ悩みも くしき恵み
今日まで守りし 主にぞ任せん
わが主のみ誓い 永久にかたし
主こそは わが盾 わが命ぞ
この身は衰え 世を去るとき
喜びあふるる 御国に生きん
・・・第二賛美歌167、
Amazing Graceの歌詞が、
本当に心に響きます。
皆様、良いクリスマスをお迎えください。
Posted by haru at 2012年12月22日 01:02
このところいやな問題が続いてすっかり笑顔を忘れてしまった。自分は問題に真面目に取り組んだいる、真剣に悪と戦っている。だから笑っている場合じゃない。でも問題はますます深刻になるばかりだ。支援者もどんどん離れていった。家族も近寄らない。緊張によるストレスのせいかよく眠れないし体調も悪い。これではいけないと気づいて無理にも笑うようにしてみた。自分をコメディアンにして人に笑ってもらうようにしてみた。すべてが好転してきた。
Posted by 俄かコメディアン at 2014年01月21日 23:49