2012年10月12日
「あきらめないでチャレンジしつづけよう!」
iPS細胞の研究で本年度のノーベル生理学・医学賞の受賞
が決まった山中伸弥京都大学教授のモットーは、
「何度失敗しても、あきらめないでチャレンジしつづける」。
当たり前のことであるが、
当たり前のことを実行して
大きな成果を上げた人が語ると、
この言葉にはとても重みがある。
マラソンランナーでもある山中教授は、
「人生はマラソン。 勝ち負けではない」
「論文で先を越されたとしても、私たち研究者はあきらめず、
最後まで走り抜く必要がある」 と語っている。
絶対に勝ち目がないと思われた裁判の弁護を頼まれたことがある。
忙しかったので、その裁判を引き受ける余裕はなかった。
知り合いの弁護士にお願いしようと何人かに連絡したが、
みんな同じ考えで誰も引き受けてくれなかった。
そのうち事態は刻々不利になっていくので、
放置しておくわけにもいかず、
「とりあえず別の弁護士が決まるまで」
と弁護を引き受けた。
「どっちみち負ける裁判だから」
初めのうちは割と気楽だった。
「この裁判に負けることが、神のご計画なのではないか」
と思い、勝訴することについてはあまり祈らなかった。
でも、次第に事件の重大性がわかってきた。
「この裁判に負けたら、とんでもないことになる!」
と気が付いたら非常に気が重くなってきた。
寝ても覚めても裁判のことが頭から離れない。
弁護活動をすればするほど、不利な証拠が出てきた。
陰鬱な重圧感が増してくる。
でも、不思議なことに、他の仕事がキャンセルになったり、
個人の用事が延期になったりして、時間が十分に与えられ、
最後までその裁判に取り組むことになった。
「神はこの裁判を勝たせようとしているのだろうか?」
ふと思い始めた。
それからは、神の奇跡を祈りつつ、日々の弁護活動に取り組んだ。
神に祈らなければ気分が晴れることがなかったからでもある。
やがて、少しずつ奇跡が起き始めた。
小さな事だが、普通ではありえない有利なことがいくつか起きたのだ。
でも同時に、予想外の不利なことも起きていた。
全体的には、圧倒的に不利な状況には変わりはなかった。
「やはり敗訴に違いない」 と落胆しつつ、
ただ自分にできること、自分のなすべきことを、
黙々と実行しつづける外なかった。
でも、弁護活動をしている時には、充実感があった。
時には、神の仕事をしている霊的な高揚があった。
神がこの事件に特別に関わってくださっているという確信が、
気持ちの落ち込みを下から支えてくれた。
最終審理の期日が近づいてきた。
その前に大きな奇跡が起きた。
関係者一同、みんなびっくりして喜んだ。
「もしかしたら、勝訴するかもしれない!」
初めて勝訴への現実的な希望がわいた。
だが、必死の努力にもかかわらず、
裁判そのものは不利なまま結審してしまった。
後は判決を待つのみである。
「やはり敗訴か。 でも、高裁に控訴すれば勝てるかもしれない」
控訴を意識しながらも、神の救いを祈りつつ、
黙々と判決前の最後の弁護活動をつづけた。
判決数日前のことである。
突然、思いもよらない大きな奇跡が起きた。
その結果、情勢が一挙に逆転し、勝訴してしまった。
・・ 「神の御旨を行って約束のものを受けるため
あなたがたに必要なのは忍耐である」
(ヘブル人への手紙 10:6)
・・ 「今日のみことば」
http://ww4.tiki.ne.jp/~sanyogospel/mikotoba/mikotoba121.htm
Posted by アブラハムささき at 00:56│Comments(19)
この記事へのコメント
ささき先生
昨日は久しぶりにご一緒できて感謝でした。
ガジマ集会恵まれましたね。
しかし、山中教授の快進撃と佐々木弁護士の快進撃は痛快です。
人生の中で、先が見通せないで、行き詰まっているように感じることもありますが、「あきらめないでチャレンジしつづける!」人生の素晴らしさを思い起こさせて頂きました。感謝致します。
今日も主の愛に押し出されて、偉大なチャレンジャーでありたいと願います。
菅野直基
昨日は久しぶりにご一緒できて感謝でした。
ガジマ集会恵まれましたね。
しかし、山中教授の快進撃と佐々木弁護士の快進撃は痛快です。
人生の中で、先が見通せないで、行き詰まっているように感じることもありますが、「あきらめないでチャレンジしつづける!」人生の素晴らしさを思い起こさせて頂きました。感謝致します。
今日も主の愛に押し出されて、偉大なチャレンジャーでありたいと願います。
菅野直基
Posted by 出前牧師カンちゃんこと菅野直基 at 2012年10月12日 07:39
目標を達成しょうとガムシァラに頑張るんじゃなくて、目標に向かって地道に歩んでいけばいいんですね。
Posted by カメ三 at 2012年10月13日 00:04
まず ご苦労様でした。
慣れない刑事事件で、大変だったと思いますが、あきらめずに本人と先生が祈り続け、頑張った成果だと思います。
昨日 てぃーだ ブログを読んだ という方とお会いしました。
僕の名刺にURLを書いているために 僕という人間がどんな人間だろうと読んでみたそうです。
ところがブログは先生のブログで書き込みを見ると、どこかには僕は出てきますが、あまり良いことは書いていません。
しかし、そのかたは、今は53歳でクリスチャンではないと思います。
ほとんど仕事の話しかしませんでしたが、若いときに事業で失敗し
会社の破産と個人の破産をしすべてを失ったと証してくださいました。
この方とはメールや電話で話はしたことがありましたがお会いしたのは今回が初めてでした。
僕に会うために背広を二日前に新調されたそうで、そのことをニコニコしながら話してくれました。
スーツ姿がとても似合うので日頃スーツ姿なのかな?と思っていました。
ところが日頃は作業服でスーツは何年振りかに紳士服の青山で買ったそうです。
しかも2着買うともう一着は1000円だそうで、今日 また仕事でお会いしますが、その2着目のスーツを着てくるそうです。
2着目の1000円のスーツだとわかっていますので、笑わないでくださいね。とおっしゃって昨日は別れました。
僕と同じような人生ですが、まさにあきらめない人生を送っておられます。
もともと技術者で、その技術を若い人に教えて、少しでも日本の復興に
役に立てたいと夢を持っておられました。
初めてお会いして、同じような失敗をした方が、今は夢を持って、日本のために働く。ということに感動しました。
恥ずかしながら、僕は自分のために働いていました。
新しいつながりができたlことを感謝します。
と同時にあきらめないで頑張ることを教えていただきました。
狛江に引っ越しした狛江住人
慣れない刑事事件で、大変だったと思いますが、あきらめずに本人と先生が祈り続け、頑張った成果だと思います。
昨日 てぃーだ ブログを読んだ という方とお会いしました。
僕の名刺にURLを書いているために 僕という人間がどんな人間だろうと読んでみたそうです。
ところがブログは先生のブログで書き込みを見ると、どこかには僕は出てきますが、あまり良いことは書いていません。
しかし、そのかたは、今は53歳でクリスチャンではないと思います。
ほとんど仕事の話しかしませんでしたが、若いときに事業で失敗し
会社の破産と個人の破産をしすべてを失ったと証してくださいました。
この方とはメールや電話で話はしたことがありましたがお会いしたのは今回が初めてでした。
僕に会うために背広を二日前に新調されたそうで、そのことをニコニコしながら話してくれました。
スーツ姿がとても似合うので日頃スーツ姿なのかな?と思っていました。
ところが日頃は作業服でスーツは何年振りかに紳士服の青山で買ったそうです。
しかも2着買うともう一着は1000円だそうで、今日 また仕事でお会いしますが、その2着目のスーツを着てくるそうです。
2着目の1000円のスーツだとわかっていますので、笑わないでくださいね。とおっしゃって昨日は別れました。
僕と同じような人生ですが、まさにあきらめない人生を送っておられます。
もともと技術者で、その技術を若い人に教えて、少しでも日本の復興に
役に立てたいと夢を持っておられました。
初めてお会いして、同じような失敗をした方が、今は夢を持って、日本のために働く。ということに感動しました。
恥ずかしながら、僕は自分のために働いていました。
新しいつながりができたlことを感謝します。
と同時にあきらめないで頑張ることを教えていただきました。
狛江に引っ越しした狛江住人
Posted by 狛江住人 at 2012年10月13日 07:33
俺は何か障害にぶつかるとすぐあきらめてしまうタイプだ。その結果、自慢じゃないが、何も達成したことがない。これから少なくとも三回は障害にチャレンジしようと思った。
Posted by あきらめ坊主 at 2012年10月14日 16:10
私も今目前に迫っている家族の内視鏡手術の事を、先生に見習って諦めず祈り続けます。回头见、基督在。
Posted by 弟子 at 2012年10月15日 19:44
イサクは井戸を掘り続けます。
命の水を得るために井戸を掘ります。
時が良くても悪くても、ペリシテ人が井戸をふさいでも、
争わず逆らわず、あきらめないで黙々と井戸を掘り続けます。
イサクは主の御声を聞くとそこに祭壇を築き、主の御名によって祈りました。
そして、また前と同じように井戸を掘りました。
何度も何度も井戸を掘り続けるイサクの姿を遠くから見ていたアビメレクは、
ついには「主があなたと共におられる。あなたは今、主に祝福されている。」
と証しし、契約を結ぶようになりました。
イサクは次第に強くなり、富を築き、ますます栄えて、非常に裕福になっても、
主の御言葉に従順に従いました。
「あなたは心のうちで、『この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ。』
と言わないように気をつけなさい。あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れる、
そういうことがないように。」
イサクは生涯主を恐れ、謙遜に主に仕えました。
同じように主はペテロに語られました。
「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚を取りなさい。」
するとペテロはこう思ったでしょう。
「先生。私たちは、夜通し働きました。何度も何度も網をおろしましたが、
何一つ魚は取れませんでした。私たちは漁師が本業ですから、もうこの辺には
魚はいないようです。岸辺に帰って網を洗いたいと思います。でも、あなたの
お言葉ですから、お言葉どおり、網をおろしてみましょう。」
そして、その通りにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになりました。
ペテロにとって絶対ありえない想定外のことが起こったのでした。
神は人ではありません。人の思いをはるかに超えて働かれます。
神は霊なるお方です。肉体を持つ私たちとは全く異なる思いで働かれます。
神は愚かな者に奇跡となって現れ、弱い者に勝者となって現れます。
御言葉に従う者には神の力を現し、主に向き合って祈る者には御心を実現させます。
大地に根付く根のように愚直にコツコツとキリスト目指して信仰生活を続けて行くと、
ある日突然芽を出して、まばゆいばかりの太陽に向かってグングン伸びていきます。
神は私たちの信仰をじっと見ていて、奇跡と驚きを実現するチャンスを探っておられます。
神は私たちを苦しめて、私たちを試み、私たちが御言葉を守るかどうか、私たちの心のうち
にあるものを知るためにさまざまな経験を与えます。また、神は本当に主を愛するかどうか
を知るためにも、私たちを試み、あえて訓練し、さまざまな試練を通らせて、ついには、
神の幸せに至らせます。
(創世記26:12~33、申命記8:2~17、申命記13:3、ルカ5:4~6)
命の水を得るために井戸を掘ります。
時が良くても悪くても、ペリシテ人が井戸をふさいでも、
争わず逆らわず、あきらめないで黙々と井戸を掘り続けます。
イサクは主の御声を聞くとそこに祭壇を築き、主の御名によって祈りました。
そして、また前と同じように井戸を掘りました。
何度も何度も井戸を掘り続けるイサクの姿を遠くから見ていたアビメレクは、
ついには「主があなたと共におられる。あなたは今、主に祝福されている。」
と証しし、契約を結ぶようになりました。
イサクは次第に強くなり、富を築き、ますます栄えて、非常に裕福になっても、
主の御言葉に従順に従いました。
「あなたは心のうちで、『この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ。』
と言わないように気をつけなさい。あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れる、
そういうことがないように。」
イサクは生涯主を恐れ、謙遜に主に仕えました。
同じように主はペテロに語られました。
「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚を取りなさい。」
するとペテロはこう思ったでしょう。
「先生。私たちは、夜通し働きました。何度も何度も網をおろしましたが、
何一つ魚は取れませんでした。私たちは漁師が本業ですから、もうこの辺には
魚はいないようです。岸辺に帰って網を洗いたいと思います。でも、あなたの
お言葉ですから、お言葉どおり、網をおろしてみましょう。」
そして、その通りにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになりました。
ペテロにとって絶対ありえない想定外のことが起こったのでした。
神は人ではありません。人の思いをはるかに超えて働かれます。
神は霊なるお方です。肉体を持つ私たちとは全く異なる思いで働かれます。
神は愚かな者に奇跡となって現れ、弱い者に勝者となって現れます。
御言葉に従う者には神の力を現し、主に向き合って祈る者には御心を実現させます。
大地に根付く根のように愚直にコツコツとキリスト目指して信仰生活を続けて行くと、
ある日突然芽を出して、まばゆいばかりの太陽に向かってグングン伸びていきます。
神は私たちの信仰をじっと見ていて、奇跡と驚きを実現するチャンスを探っておられます。
神は私たちを苦しめて、私たちを試み、私たちが御言葉を守るかどうか、私たちの心のうち
にあるものを知るためにさまざまな経験を与えます。また、神は本当に主を愛するかどうか
を知るためにも、私たちを試み、あえて訓練し、さまざまな試練を通らせて、ついには、
神の幸せに至らせます。
(創世記26:12~33、申命記8:2~17、申命記13:3、ルカ5:4~6)
Posted by eulogesai at 2012年10月16日 17:15
母の手術が無事終わりました。
不安もありましたが、不思議に心に静けさが与えられていました。
術後、母と一緒に過ごす中で、過去のことが色々と頭をよぎり、
不思議な喜びに満たされていました。
思えば、子供の頃から、「分かり合えない母娘」でした。
叱責と反発の応酬でした。
お互いが、お互いの悩みの種、でした。
(他にも「大きいの」がありましたが・・。)
お互いの違いを、「個性の違い」と思えず、
お互いを、結局のところ「自分好み」に変えようとする
有害無益な試みを繰り返してきました。
それが・・・、こうして何十年もの時を経て、
思いがけない私の失業に伴う、
親子同居という時間をいただいて、
いつの間にか、
お互いの存在を喜び合えるようにしていただいている!という奇跡。
主に感謝します。
お金には代えられない恵みと平安に・・。
最近気づいたのですが、
主を賛美する、ということは、
誰かの言うように、
「神を専制君主とし、人間はロボット化させられる。
どこかの国の独裁・洗脳政治のようだ。」
という「序列による統制」のようなものではなく、
単純に、お互いを、お互いの喜びとする、その表現の一つなのですね。
神様は、「いばりたい」のではなく、
かつて人との間にあった、
信頼関係を取り戻したい!と思っておられる。
ただそれだけなのではないか・・と思わされています。
不安もありましたが、不思議に心に静けさが与えられていました。
術後、母と一緒に過ごす中で、過去のことが色々と頭をよぎり、
不思議な喜びに満たされていました。
思えば、子供の頃から、「分かり合えない母娘」でした。
叱責と反発の応酬でした。
お互いが、お互いの悩みの種、でした。
(他にも「大きいの」がありましたが・・。)
お互いの違いを、「個性の違い」と思えず、
お互いを、結局のところ「自分好み」に変えようとする
有害無益な試みを繰り返してきました。
それが・・・、こうして何十年もの時を経て、
思いがけない私の失業に伴う、
親子同居という時間をいただいて、
いつの間にか、
お互いの存在を喜び合えるようにしていただいている!という奇跡。
主に感謝します。
お金には代えられない恵みと平安に・・。
最近気づいたのですが、
主を賛美する、ということは、
誰かの言うように、
「神を専制君主とし、人間はロボット化させられる。
どこかの国の独裁・洗脳政治のようだ。」
という「序列による統制」のようなものではなく、
単純に、お互いを、お互いの喜びとする、その表現の一つなのですね。
神様は、「いばりたい」のではなく、
かつて人との間にあった、
信頼関係を取り戻したい!と思っておられる。
ただそれだけなのではないか・・と思わされています。
Posted by haru at 2012年10月18日 16:22
「全てのことを、主のご計画として受け取ることが、祝福につながるのよ。」
と、母はよく言います。とはいえ、お互いですが、
その様に受け取ることが、なかなかできないこともあるのですが・・。
でも改めて、本当だと思わされています。
なかなか受け取ることができなかった「痛み」。
親子関係におけるもの。ある人との関係におけるもの。職場におけるもの等。
不条理と思えて仕方のなかったこと・・。
単に私が頑固なだけだっただと反省させられるものもあります。
また、明らかに公正でないこと、残業代が支払われなかったり、
上司から責任転嫁され、お客の非難と軽蔑を浴びたこともありました。
納得いかず、苛々してばかりしていた時期がありました。
自分の荒れる感情を持て余した時期がありました。
けれど、なぜか、今は平安です。
私が努力した訳でもないのに・・。
状況が好転したというよりも、
ただ、握り締めていた「私の権利」を手放し、
神様の正義を信じる、委ねる、ということそのものがもたらしてくれる平安。
それを体験させていただけること、
何が本当に大切なのか、分かるように導かれていること自体が、
何よりの恵みだと気づかされました。
同時に、様々な苦しみを通して、
私自身が、悪意はなくとも、
悩ませ、苦しめてしまった人の痛みを思わされています。
直接連絡を取ることは難しいのですが・・。
心から、彼女の生活が祝福されることを、祈っています・・。
「主は公正を愛される。」
主の戒めを、感謝しています。
と、母はよく言います。とはいえ、お互いですが、
その様に受け取ることが、なかなかできないこともあるのですが・・。
でも改めて、本当だと思わされています。
なかなか受け取ることができなかった「痛み」。
親子関係におけるもの。ある人との関係におけるもの。職場におけるもの等。
不条理と思えて仕方のなかったこと・・。
単に私が頑固なだけだっただと反省させられるものもあります。
また、明らかに公正でないこと、残業代が支払われなかったり、
上司から責任転嫁され、お客の非難と軽蔑を浴びたこともありました。
納得いかず、苛々してばかりしていた時期がありました。
自分の荒れる感情を持て余した時期がありました。
けれど、なぜか、今は平安です。
私が努力した訳でもないのに・・。
状況が好転したというよりも、
ただ、握り締めていた「私の権利」を手放し、
神様の正義を信じる、委ねる、ということそのものがもたらしてくれる平安。
それを体験させていただけること、
何が本当に大切なのか、分かるように導かれていること自体が、
何よりの恵みだと気づかされました。
同時に、様々な苦しみを通して、
私自身が、悪意はなくとも、
悩ませ、苦しめてしまった人の痛みを思わされています。
直接連絡を取ることは難しいのですが・・。
心から、彼女の生活が祝福されることを、祈っています・・。
「主は公正を愛される。」
主の戒めを、感謝しています。
Posted by haru at 2012年10月24日 00:57
佐々木先生のブログなのに、色々書きすぎてしまったかな・・と
ちょっと心配&反省しています。
イエス様を信じることは、イエス様が今も生きておられると信じること、
私たちを、私を、十字架の贖いによって赦し、愛しておられ、
私たちの信仰が、愛する心が、成長することを喜んでくださる、
と信じることですよね?
「 明日のことを思い煩うな。 」
という主の御言葉を思い出しています。
感謝します。
ちょっと心配&反省しています。
イエス様を信じることは、イエス様が今も生きておられると信じること、
私たちを、私を、十字架の贖いによって赦し、愛しておられ、
私たちの信仰が、愛する心が、成長することを喜んでくださる、
と信じることですよね?
「 明日のことを思い煩うな。 」
という主の御言葉を思い出しています。
感謝します。
Posted by haru at 2012年10月24日 23:25
・・・ ご案内
「オアシス賛美と創造科学聖会」
2012年10月25日 (木) 夜7時
東京都千代田区神田駿河台2-1 OCCビル 402
講師: 佐々木満男 (ラブ・クリエーション・ジャパン 会長)
テーマ: 「驚くべき創造」 と 「恐るべき破壊」 と 「すばらしい救い」
「オアシス賛美と創造科学聖会」
2012年10月25日 (木) 夜7時
東京都千代田区神田駿河台2-1 OCCビル 402
講師: 佐々木満男 (ラブ・クリエーション・ジャパン 会長)
テーマ: 「驚くべき創造」 と 「恐るべき破壊」 と 「すばらしい救い」
Posted by アブラハムささき at 2012年10月24日 23:35
明日の『オアシス賛美と創造科学聖会』参加したですが、会場から、先生の現在おられるところから私のところ迄約500kmも離れているので行く事が出来ません。『創造科学聖会』と聴くだけで、素敵な響き、世界の中で、特に人間科学の分野において21世紀を代表する会となる可能性を秘めたものであると予見します。古都よりこの会の充実と今後の発展、新たな与えられたVISIONに皆心ひとつにあって、明日の会合も盛況のうちに終わられる様、神様にお祈りします。これまでグランドキャニオンでの働きに及ぶ先生の全ての歩みが、日本の地でのこの会を通して、良い形で実を結ぶ事となるように併せてお祈りしております。
会の重要なリーダーである先生は都内を自転車で移動される程、まだまだ強健な身体をお持ちですが、伝道とはゆえ働き過ぎに、健康には十分配慮願います。
本会の開催時間中に私も主の臨在を、強く、遠くにありても感じる事が出来ます様に。在主
会の重要なリーダーである先生は都内を自転車で移動される程、まだまだ強健な身体をお持ちですが、伝道とはゆえ働き過ぎに、健康には十分配慮願います。
本会の開催時間中に私も主の臨在を、強く、遠くにありても感じる事が出来ます様に。在主
Posted by 西の弟子 at 2012年10月25日 01:56
私も、東京から遠く離れたところに住んでいるため、佐々木先生の講演会に行くことはできませんが、会が祝福されますよう、お祈りします。また、日々、伝道のため、人々のため、身を粉にしておられる先生のためにも・・。
目に見えないものも存在し、聖書の言うように、目に見えないものこそ、永続するのですよね・・。
目に見えないものも存在し、聖書の言うように、目に見えないものこそ、永続するのですよね・・。
Posted by haru at 2012年10月26日 13:19
すみません、会は昨日でしたね。失礼しました・・。
Posted by haru at 2012年10月26日 13:22
聖書には「潜勢力」という霊的な力があります。
「弱いものなのに強くされる。」とか、「悲しむ者は喜ぶようになる。」という言葉で表現されている力です。
私たちの心の奥底には、今ある思いとは正反対の力が潜んでいます。普通、私たちの心はひとつの思いが支配していますが、その心の深奥には自分でも気がつかない偉大な力が潜んでいます。この力は何かのきっかけで表面に現れ、自分を変えるほどの圧倒的な力に成長していきます。この魂の奥底に潜んでいて表面に現れない力を「潜勢力」といいます。
例えば、弱い者は強いという潜勢力があり、悲しむ心には喜ぶという潜勢力があります。悩みは平安に置き換わるという潜勢力であり、恐れは確信に至るという潜勢力を持っています。イザヤ書61章で「灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。」という御言葉も潜勢力を表しています。
クリスチャンは神の子という潜勢力を持っています。キリスト者は神の神殿であって、私たちには神の御霊が宿っています。つまり、キリスト者の体内には神の力が生きているということです。これが霊的な潜勢力です。それは、「種」のようなもので、今は弱いにもかかわらず、内におられる御霊が時の経過と共に強い者へと「種」を成長させ、時が満ちるとキリストの実を豊かに結ばせるようになります。
この潜勢力は本人の無意識の中で働いているものなので、本人が自覚することも意識することも出来ません。本人が出来ることはキリストと繋がっていること、とりわけ御言葉と繋がっていることだけです。御言葉を暗記して心に蓄えることがキリストと繋がるということです。
心に蓄えられた御言葉は、聖霊の呼びかけによって目を覚まし潜勢力となって活動を始め、その勢いは御言葉が実現するまで働き続けます。聖書はすべて聖霊に導かれた人たちが、神の霊感によって書かれたものですので、神の言葉そのものに聖霊が織り込まれています。
ですから、御言葉を心の中で唱えるとき、御霊が呼び起こされて潜勢力が働き始めます。そして、潜勢力が活発に活動すると、文字通り御霊に導かれて次々と新しい思考や行動が表れてきます。潜勢力とは隠れたる霊的な信仰、信仰を成長し維持する霊的な力です。
日本では言葉に宿っている霊的な力を「言霊」(ことだま)と言い、言霊に導かれて言葉を声に出して言うことを「言挙げ」(ことあげ)と言います。この「言霊」と「言挙げ」を内容として書かれた書物が古事記や万葉集などの古典です。最近、古事記や万葉集が若者に人気があるのは日本人の霊的DNAが関係していると思います。福音的に言えば「言霊」が御言葉で、「言挙げ」が伝道ということでしょう。
弱さや、恐れ、悩みは、それ自体問題ではありません。これらの問題は時が来れば必ず解決されるものです。むしろ聖霊の働きを妨げていることに問題があります。聖霊の働きに委ねれば、御心のままに問題を取り扱ってくださいますので、問題から解放され自由にされます。クリスチャンは聖霊が働きやすいように、霊的な環境を整えることが必要です。
そのためのベストな方法は御言葉を暗記して心に蓄え、心の中で唱えることです。賛美や祈りを通して心に蓄えられた御言葉に聖霊が働かれると、御言葉に宿る聖霊が潜勢力となって現れ、よみがえったキリストのように生き生きと神の御業を始められます。
従って、聖霊が働かれるためには、御言葉の修練が是非とも必要です。賛美や祈りだけでは聖霊が十分に働くことは出来ません。聖霊は御言葉を通して働かれるからです。御言葉が魂一杯に満ち溢れてくると、自然に信じる力が湧き上がり、御言葉に根ざした全く新しい行動に導かれます。
聖霊はすでに御言葉の中に織り込まれており、潜勢力となって存在していますが、御言葉を知識として学んだり、エゴだけのお願い信仰であったり、社会的な名誉や実績を誇示したり、他人を見下すおごり高ぶり、いつも時間に追われる忙しい人、騒々しい落ち着かない肉の人には聖霊はむしろ妨げとなって働きます。
よく「これはサタンの働きだ!!」言うクリスチャンがいますが、これは間違いです。パウロがアジアで御言葉を語ることを聖霊によって禁じられたように、その人の信仰を守るために聖霊が妨げとなって働く場合があります。ですから、自分の内面や生活をよく反省して、聖霊が働きやすい霊的環境を整えることがきわめて重要です。
聖書が言っているキリスト信仰は言行一致です。「信じた御言葉は、必ず実現する。」、「御言葉を実行しなさい。そうすれば実現します。」という言葉信仰です。申命記18章でも言っているように「預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られた言葉ではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。」という御言葉はまさに本当です。
なぜ神の言葉が実現するのか? これこそが御霊の働きによるものです。私たちには聖霊の働きを見ることも、理解することも、説明することも出来ません。知識として学ぶことが出来ませんから、霊的信仰を地道に積み上げて御言葉に伴うしるしをもって、御霊の業を確認するしかありません。聖霊に委ね、御霊に導かれる信仰を体験しているクリスチャンなら誰しも至極当然と思うでしょう。
なお、御霊に導かれて示された御言葉は【イザヤ書61:3、コリントⅠ3:16、テモテⅡ3:16、ペテロⅡ1:21、使徒16:6、申命記18:22、マルコ16:20】です。お手すきの時にでも聖書を開いて読んでみてください。
「弱いものなのに強くされる。」とか、「悲しむ者は喜ぶようになる。」という言葉で表現されている力です。
私たちの心の奥底には、今ある思いとは正反対の力が潜んでいます。普通、私たちの心はひとつの思いが支配していますが、その心の深奥には自分でも気がつかない偉大な力が潜んでいます。この力は何かのきっかけで表面に現れ、自分を変えるほどの圧倒的な力に成長していきます。この魂の奥底に潜んでいて表面に現れない力を「潜勢力」といいます。
例えば、弱い者は強いという潜勢力があり、悲しむ心には喜ぶという潜勢力があります。悩みは平安に置き換わるという潜勢力であり、恐れは確信に至るという潜勢力を持っています。イザヤ書61章で「灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。」という御言葉も潜勢力を表しています。
クリスチャンは神の子という潜勢力を持っています。キリスト者は神の神殿であって、私たちには神の御霊が宿っています。つまり、キリスト者の体内には神の力が生きているということです。これが霊的な潜勢力です。それは、「種」のようなもので、今は弱いにもかかわらず、内におられる御霊が時の経過と共に強い者へと「種」を成長させ、時が満ちるとキリストの実を豊かに結ばせるようになります。
この潜勢力は本人の無意識の中で働いているものなので、本人が自覚することも意識することも出来ません。本人が出来ることはキリストと繋がっていること、とりわけ御言葉と繋がっていることだけです。御言葉を暗記して心に蓄えることがキリストと繋がるということです。
心に蓄えられた御言葉は、聖霊の呼びかけによって目を覚まし潜勢力となって活動を始め、その勢いは御言葉が実現するまで働き続けます。聖書はすべて聖霊に導かれた人たちが、神の霊感によって書かれたものですので、神の言葉そのものに聖霊が織り込まれています。
ですから、御言葉を心の中で唱えるとき、御霊が呼び起こされて潜勢力が働き始めます。そして、潜勢力が活発に活動すると、文字通り御霊に導かれて次々と新しい思考や行動が表れてきます。潜勢力とは隠れたる霊的な信仰、信仰を成長し維持する霊的な力です。
日本では言葉に宿っている霊的な力を「言霊」(ことだま)と言い、言霊に導かれて言葉を声に出して言うことを「言挙げ」(ことあげ)と言います。この「言霊」と「言挙げ」を内容として書かれた書物が古事記や万葉集などの古典です。最近、古事記や万葉集が若者に人気があるのは日本人の霊的DNAが関係していると思います。福音的に言えば「言霊」が御言葉で、「言挙げ」が伝道ということでしょう。
弱さや、恐れ、悩みは、それ自体問題ではありません。これらの問題は時が来れば必ず解決されるものです。むしろ聖霊の働きを妨げていることに問題があります。聖霊の働きに委ねれば、御心のままに問題を取り扱ってくださいますので、問題から解放され自由にされます。クリスチャンは聖霊が働きやすいように、霊的な環境を整えることが必要です。
そのためのベストな方法は御言葉を暗記して心に蓄え、心の中で唱えることです。賛美や祈りを通して心に蓄えられた御言葉に聖霊が働かれると、御言葉に宿る聖霊が潜勢力となって現れ、よみがえったキリストのように生き生きと神の御業を始められます。
従って、聖霊が働かれるためには、御言葉の修練が是非とも必要です。賛美や祈りだけでは聖霊が十分に働くことは出来ません。聖霊は御言葉を通して働かれるからです。御言葉が魂一杯に満ち溢れてくると、自然に信じる力が湧き上がり、御言葉に根ざした全く新しい行動に導かれます。
聖霊はすでに御言葉の中に織り込まれており、潜勢力となって存在していますが、御言葉を知識として学んだり、エゴだけのお願い信仰であったり、社会的な名誉や実績を誇示したり、他人を見下すおごり高ぶり、いつも時間に追われる忙しい人、騒々しい落ち着かない肉の人には聖霊はむしろ妨げとなって働きます。
よく「これはサタンの働きだ!!」言うクリスチャンがいますが、これは間違いです。パウロがアジアで御言葉を語ることを聖霊によって禁じられたように、その人の信仰を守るために聖霊が妨げとなって働く場合があります。ですから、自分の内面や生活をよく反省して、聖霊が働きやすい霊的環境を整えることがきわめて重要です。
聖書が言っているキリスト信仰は言行一致です。「信じた御言葉は、必ず実現する。」、「御言葉を実行しなさい。そうすれば実現します。」という言葉信仰です。申命記18章でも言っているように「預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られた言葉ではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。」という御言葉はまさに本当です。
なぜ神の言葉が実現するのか? これこそが御霊の働きによるものです。私たちには聖霊の働きを見ることも、理解することも、説明することも出来ません。知識として学ぶことが出来ませんから、霊的信仰を地道に積み上げて御言葉に伴うしるしをもって、御霊の業を確認するしかありません。聖霊に委ね、御霊に導かれる信仰を体験しているクリスチャンなら誰しも至極当然と思うでしょう。
なお、御霊に導かれて示された御言葉は【イザヤ書61:3、コリントⅠ3:16、テモテⅡ3:16、ペテロⅡ1:21、使徒16:6、申命記18:22、マルコ16:20】です。お手すきの時にでも聖書を開いて読んでみてください。
Posted by 名も亡き者 at 2012年10月26日 17:18
名も亡き者さん、メッセージありがとうございます。
早速、御言葉を紐解きました。
どれも、覚えのある言葉なのですが、
正確に記憶するとなると、なかなかです・・。
ともかく、ポイントとしては、
御言葉を通して、主の御霊に導かれた生活をするのが
クリスチャンライフということでしょうか。
確かに、御言葉を噛み締めて生活しているかというと、
一日一つの御言葉の日めくりを頂くのがやっと・・みたいな中で、
主の御顔を慕い求める、という基本をおろそかにしていたことに
気づかされました。ありがとうございます。
「鉄は鉄によって研がれ、人はその友によって研がれる。」
と御言葉にもありますが、たとえこの地上で顔を合わせることがなくとも、
主にある「友」として、お互いに「いいね!」ばかりを言うのでなく、
切磋琢磨できることの幸せを、感謝します。
佐々木先生は、来週早々、田内千鶴子さんの日韓記念交流会ですね。
会が祝され、クリスチャンが、世界の平和のために、
働くことができますよう、お祈りします。
早速、御言葉を紐解きました。
どれも、覚えのある言葉なのですが、
正確に記憶するとなると、なかなかです・・。
ともかく、ポイントとしては、
御言葉を通して、主の御霊に導かれた生活をするのが
クリスチャンライフということでしょうか。
確かに、御言葉を噛み締めて生活しているかというと、
一日一つの御言葉の日めくりを頂くのがやっと・・みたいな中で、
主の御顔を慕い求める、という基本をおろそかにしていたことに
気づかされました。ありがとうございます。
「鉄は鉄によって研がれ、人はその友によって研がれる。」
と御言葉にもありますが、たとえこの地上で顔を合わせることがなくとも、
主にある「友」として、お互いに「いいね!」ばかりを言うのでなく、
切磋琢磨できることの幸せを、感謝します。
佐々木先生は、来週早々、田内千鶴子さんの日韓記念交流会ですね。
会が祝され、クリスチャンが、世界の平和のために、
働くことができますよう、お祈りします。
Posted by haru at 2012年10月27日 14:02
HARUさま、 皆さま、
いつも書き込み感謝します。
このブログはイエスさまのものです。
どうぞご遠慮なく、
どんな内容(お互いを非難し合うようなものを除いて)でも、
ご自由に書き込んでください。
皆さんとご一緒に考えていきましょう。
いつも書き込み感謝します。
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どうぞご遠慮なく、
どんな内容(お互いを非難し合うようなものを除いて)でも、
ご自由に書き込んでください。
皆さんとご一緒に考えていきましょう。
Posted by ささき at 2012年10月28日 00:40
言葉は人格を形造ります。
言葉には思いや考え、意思や霊力が宿っているため、心に言葉を蓄えて育んでいくと、言葉に潜む霊的な人格と関わりを持ち、新しい人格を形造るようになります。
聖書は、すべて神の霊感によって、聖霊に動かされた人たちが、神からの言葉を書き記した書物です。聖霊が書き手に臨み、神から聴いた言葉を御霊に導かれるままに忠実に紡ぎながら書き記したものが聖書です。その結果、聖書のすべての言葉には聖霊が宿ることになりました。それは、織物の中に模様を編み込むように、撚り糸をよるように御言葉の中に聖霊が織り込まれることになりました。
聖書は、神が私たちに宛てたEメールのようなもので、神は御言葉を通してご自分の思いや考え、意思や霊力を私たちに伝えようとしているのです。私たちが聖書を読むとき、御言葉に宿る聖霊が、読み手の魂に語りかけて内なる聖霊を呼び起こし、神の思いや意思を私たちに伝え、御言葉に隠された知恵と力によってさまざまな聖霊の御業を私たちに現すのです。
詩篇1:2~3には「主のおしえを口ずさむ人は、何をしても栄える。」と言っています。これは「神の言葉をいつも口ずさんで暗記して心に蓄えなさい。そうすれば、そのような人は何をしても栄える。」ということです。
なぜ、御言葉を暗記した人は栄えるのでしょうか。それは、御言葉を暗記して自分の言葉になるまで消化していくと、自分の言葉となった御言葉が血となり肉となって霊のからだを作り、霊的な働きをするからです。御言葉に宿る聖霊が、御言葉を暗記していく過程で魂に流れ込み、その人の内なる言葉と反応してさまざま霊的な働きをするようになります。
では、霊的な働きとはどのような働きでしょうか。黙示録3:20では「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」と言っています。これは「イエス様である御言葉が、外に立って魂をたたいている。誰でも魂を開いて御言葉を受け入れるなら、御言葉と共に食事をする。」ということです。つまり食事をすることは会話するということです。
当時の食事は、ただ食物を食べるのではなく、食事をしながら会話するのが一般的でした。そのため、食事をすることは会話する、お互いに交わる、対話するという意味がありました。従って、この黙示録3:20の霊的な意味は「御言葉を魂に受け入れて、御言葉と会話しなさい。」ということです。
暗記した「御言葉」が心に蓄えられていくと、内面にある「自分の言葉」と、ちょうど顔と顔とを合わせて会話するように交わるようになります。その際、聖霊が仲立ちとなって、霊的な働きが行われ、まるで錬金術のように全く新しい神の言葉が生み出されていくのです。
こうして、御言葉が魂の中で煉り合わされ、熱されて自分の言葉化し、魂一杯に満ち溢れてくると、御言葉が昇華して変容していきます。深い感動が湧き上がり、至福の喜びに満たされ、御言葉の霊的な意味に気づかされるなど新しい発見や驚き、不思議な神的な経験にも包まれ、まさに甘いぶどう酒に酔ったような気持ちに移されます。
この新しく生まれ変わった御言葉が、次第に成長してその人の意識や思考、行動すべてを変えるようになります。復活した御言葉が心の中に浸透していくと意識が変わり始め、これに伴って考え方も変わってきますので、まさに古い衣が取り去られて、全く新しい霊の衣を着るようになるのです。
聖霊の衣を着た人は、世の中を霊的な目で見るようになり、御霊に導かれて行動しますので、あまり深刻にならないで軽やかに生きるようになります。少々のことではブレなくなり、喜怒哀楽に振り回されることもなくなります。多少の浮き沈みがあっても落ち込むこともなく泰然自若と臨むようになります。祈りにおいても、自分の言葉化した御言葉で祈るようになり、聖書を読む際も、御霊に導かれて御言葉の背後にある霊的な意味を汲み取りながら読んでいきますので、聖書の思いや考えを悟るようになります。
こうして、暗記した御言葉は心に蓄えられ、言葉と言葉の交じり合いによって、新しい御言葉の人格―キリストの人格を形造るようになるのです。
イエス様はヨハネ10章で、神の言葉を受けた人々を神の子と言っています。つまり、神の言葉に宿っている聖霊を魂に受け入れた人々は、聖霊が宿っているのだから神の子だと言っているのです。まさに、御言葉に宿る聖霊が私たちの魂に注ぎ込まれて、私たちは「聖霊の宮」とされるのです。
モーセのあかしの板(十戒)は神の指で書かれました。これは、神の指を通して文字の中に聖霊が刻み込まれた結果、これを覆っていた贖いのふたの上に神が下ることになったということです。こうして、あかしの板に刻まれた文字は聖霊が宿る文字となったのです。言葉は霊的な受容体ですので、御言葉には聖霊を封じ込める働きがあります。
このように、言葉には霊的な力が宿っています。人は読んだり聞いたりするとき、魂にある霊的な能力を同調させて理解しているのです。言葉は神秘的でそれ自体は完結した体系です。世界で語られている言葉は、人種や民族によって違いがありますが、文法や発音など基本的な原理はみな同じで、何よりも意味を持っています。古代人の言葉や現代人の言葉、未開の少数民族や大都会の人々の言葉もみなその社会の枠組みの中で、言葉に思いを託し、意思を込め、意味を持って話し手から聞き手に伝わります。
言葉は歴史と共に「変化」することはあっても、「進化」することはありません。なぜなら、人間は言葉を通して霊的な関係を築き、霊的な営みを行っているからです。従って、人間はサルから進化することは出来ないのです。人間は人間同士が理解し合える霊的な言葉を持っている限り、他の動物から進化することなど絶対ありえないのです。動物が持っている動物霊が人間の霊に進化することはありえないし、サルの言葉が進化して人間特有の霊の言葉に進化することなど出来ないのです。動物は動物霊を持ってコミュニケーションをとり、人間は神の霊によって言葉でコミュニケーションをとるからです。
聖書においても、御言葉に宿る聖霊によって、今もなお私たちに「神が語った言葉」を伝えています。クリスチャンと御言葉の間には聖霊による共感関係がありますから、聖書を読むとき御言葉の聖霊と、クリスチャンにある聖霊が呼応して共感作用を起こします。その結果、クリスチャンに御言葉の意味を理解させ、キリストを信じさせる力を呼び起こし、キリストを目指す信仰を成長させます。クリスチャンなら誰でも聖霊が働いているので、御霊は常にクリスチャンの信仰を見守り、災いの時には助け主を遣わし、悩みや不安な時には御言葉を与えて、絶えずイエス様のもとイエス様のもとへと導きます。
最近亡くなった俳優の大滝秀治さんは、脚本を何度も読み返して脚本の言葉を全身に浸み込ませました。言葉がからだ全体に浸み込むまで徹底的に読み込まないと役作りは出来ないと語っていました。大滝さんは言葉のうちに潜む霊的な関わりをよく理解していたので、観客を感動させることができました。
伝統的なユダヤ人は、子供が3歳になると父親が聖書を開いて蜂蜜を一滴だけ落として、子供に口づけさせ「この本はあなたにとって蜜のように甘く、一生の友となる。」と教えます。そして、御言葉を日々暗記して心に蓄えるように指導します。そして、男子が13歳、女子が12歳になると自分が覚えた聖書の個所をシナゴーク(ユダヤ教の教会堂)で朗読し、自分なりの解釈を加えます。そして、ラビや会衆から自分が覚えた御言葉や解釈について二三のやり取りがあった後、大人として認められることになります。こうして、子供たちは本格的に世の知識や聖書の知識を学ぶようになるのです。イエス様はルカ2章においてこの「バー・ミツバ」という儀式を行っています。
イスラムおいては子供の頃からコーランを徹底的に暗記させられます。コーランは彼らにとってはいのちであり人生なのです。仏教においても、「般若心経」の霊的働きを重視して写経を積極的に勧めています。つまり、言葉に宿る霊的存在との関わりを通して、全人格的な霊的な生き方を高めようと努めているのです。
私たちは、御言葉に潜んでいる途方もない知恵や力に全く気づいていません。御言葉には私たちクリスチャンが考えている以上の超越した知恵や力が隠されています。聖書で「秘められている財宝」とか「隠された宝」と言っているのはこのことです。名を馳せた人々の中には、御言葉の聖霊に接触し、圧倒するほどの知恵と力をいただいて、御霊に導かれて活躍した人たちが何人もいます。実業家、政治家、学者、科学者、アーティスト、映画監督・・・。彼らは御言葉をしっかり暗記して心に蓄え、聖霊との関わりの中で御言葉に隠された財宝を引き出して世の中に挑んでいきました。
聖書には、私たちが人生を切り開いていくために必要なすべての知恵と力が隠されています。父なる神は弱い私たちが厳しい人生を送るに際して、困らないように、窮することのないようにと密かに神の知恵と力を聖書に託してくださったのです。
まさに御言葉は「力ある言葉」、「知恵の泉」なのです。御言葉を暗記して、このお方を魂に注ぎ入れて復活させるなら、今までとは全く違う力強い人生となるでしょう。ちなみに、霊的には旧約は父の時代、新約は子の時代、使徒時代は聖霊の時代です。現在は使徒の時代であって、聖霊の時代でもあり、御言葉の時代でもあるのです。
なお、御言葉を暗記するひとつの方法として、国際ナビゲーターという宣教団体が販売している「聖句暗記カード」はよくまとまっています。基本的な御言葉が口語訳、新改訳で印刷されているので御言葉を暗記するには何かと便利です。
これから、私たちはカオスの時代を生きていくことになります。そのためには霊的な体力をつけ、何があっても動じない「根」のある信仰を持って生きていかなければなりません。そのためには毎日少しの時間、信仰のために霊的な投資が必要だと思います。
今回、聖霊が導いてくれた御言葉は【テモテⅡ3:16、ペテロⅡ1:21、詩篇1:2~3、黙示録3:20、ヨハネ10:35~36、コリントⅠ6:19、出エジプト記25:21~22、ルカ2:46~47、イザヤ45:3】です。本当に短い聖句ですが霊的には奥深く、隠された宝としても余りある御言葉です。参考にしてください。
言葉には思いや考え、意思や霊力が宿っているため、心に言葉を蓄えて育んでいくと、言葉に潜む霊的な人格と関わりを持ち、新しい人格を形造るようになります。
聖書は、すべて神の霊感によって、聖霊に動かされた人たちが、神からの言葉を書き記した書物です。聖霊が書き手に臨み、神から聴いた言葉を御霊に導かれるままに忠実に紡ぎながら書き記したものが聖書です。その結果、聖書のすべての言葉には聖霊が宿ることになりました。それは、織物の中に模様を編み込むように、撚り糸をよるように御言葉の中に聖霊が織り込まれることになりました。
聖書は、神が私たちに宛てたEメールのようなもので、神は御言葉を通してご自分の思いや考え、意思や霊力を私たちに伝えようとしているのです。私たちが聖書を読むとき、御言葉に宿る聖霊が、読み手の魂に語りかけて内なる聖霊を呼び起こし、神の思いや意思を私たちに伝え、御言葉に隠された知恵と力によってさまざまな聖霊の御業を私たちに現すのです。
詩篇1:2~3には「主のおしえを口ずさむ人は、何をしても栄える。」と言っています。これは「神の言葉をいつも口ずさんで暗記して心に蓄えなさい。そうすれば、そのような人は何をしても栄える。」ということです。
なぜ、御言葉を暗記した人は栄えるのでしょうか。それは、御言葉を暗記して自分の言葉になるまで消化していくと、自分の言葉となった御言葉が血となり肉となって霊のからだを作り、霊的な働きをするからです。御言葉に宿る聖霊が、御言葉を暗記していく過程で魂に流れ込み、その人の内なる言葉と反応してさまざま霊的な働きをするようになります。
では、霊的な働きとはどのような働きでしょうか。黙示録3:20では「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」と言っています。これは「イエス様である御言葉が、外に立って魂をたたいている。誰でも魂を開いて御言葉を受け入れるなら、御言葉と共に食事をする。」ということです。つまり食事をすることは会話するということです。
当時の食事は、ただ食物を食べるのではなく、食事をしながら会話するのが一般的でした。そのため、食事をすることは会話する、お互いに交わる、対話するという意味がありました。従って、この黙示録3:20の霊的な意味は「御言葉を魂に受け入れて、御言葉と会話しなさい。」ということです。
暗記した「御言葉」が心に蓄えられていくと、内面にある「自分の言葉」と、ちょうど顔と顔とを合わせて会話するように交わるようになります。その際、聖霊が仲立ちとなって、霊的な働きが行われ、まるで錬金術のように全く新しい神の言葉が生み出されていくのです。
こうして、御言葉が魂の中で煉り合わされ、熱されて自分の言葉化し、魂一杯に満ち溢れてくると、御言葉が昇華して変容していきます。深い感動が湧き上がり、至福の喜びに満たされ、御言葉の霊的な意味に気づかされるなど新しい発見や驚き、不思議な神的な経験にも包まれ、まさに甘いぶどう酒に酔ったような気持ちに移されます。
この新しく生まれ変わった御言葉が、次第に成長してその人の意識や思考、行動すべてを変えるようになります。復活した御言葉が心の中に浸透していくと意識が変わり始め、これに伴って考え方も変わってきますので、まさに古い衣が取り去られて、全く新しい霊の衣を着るようになるのです。
聖霊の衣を着た人は、世の中を霊的な目で見るようになり、御霊に導かれて行動しますので、あまり深刻にならないで軽やかに生きるようになります。少々のことではブレなくなり、喜怒哀楽に振り回されることもなくなります。多少の浮き沈みがあっても落ち込むこともなく泰然自若と臨むようになります。祈りにおいても、自分の言葉化した御言葉で祈るようになり、聖書を読む際も、御霊に導かれて御言葉の背後にある霊的な意味を汲み取りながら読んでいきますので、聖書の思いや考えを悟るようになります。
こうして、暗記した御言葉は心に蓄えられ、言葉と言葉の交じり合いによって、新しい御言葉の人格―キリストの人格を形造るようになるのです。
イエス様はヨハネ10章で、神の言葉を受けた人々を神の子と言っています。つまり、神の言葉に宿っている聖霊を魂に受け入れた人々は、聖霊が宿っているのだから神の子だと言っているのです。まさに、御言葉に宿る聖霊が私たちの魂に注ぎ込まれて、私たちは「聖霊の宮」とされるのです。
モーセのあかしの板(十戒)は神の指で書かれました。これは、神の指を通して文字の中に聖霊が刻み込まれた結果、これを覆っていた贖いのふたの上に神が下ることになったということです。こうして、あかしの板に刻まれた文字は聖霊が宿る文字となったのです。言葉は霊的な受容体ですので、御言葉には聖霊を封じ込める働きがあります。
このように、言葉には霊的な力が宿っています。人は読んだり聞いたりするとき、魂にある霊的な能力を同調させて理解しているのです。言葉は神秘的でそれ自体は完結した体系です。世界で語られている言葉は、人種や民族によって違いがありますが、文法や発音など基本的な原理はみな同じで、何よりも意味を持っています。古代人の言葉や現代人の言葉、未開の少数民族や大都会の人々の言葉もみなその社会の枠組みの中で、言葉に思いを託し、意思を込め、意味を持って話し手から聞き手に伝わります。
言葉は歴史と共に「変化」することはあっても、「進化」することはありません。なぜなら、人間は言葉を通して霊的な関係を築き、霊的な営みを行っているからです。従って、人間はサルから進化することは出来ないのです。人間は人間同士が理解し合える霊的な言葉を持っている限り、他の動物から進化することなど絶対ありえないのです。動物が持っている動物霊が人間の霊に進化することはありえないし、サルの言葉が進化して人間特有の霊の言葉に進化することなど出来ないのです。動物は動物霊を持ってコミュニケーションをとり、人間は神の霊によって言葉でコミュニケーションをとるからです。
聖書においても、御言葉に宿る聖霊によって、今もなお私たちに「神が語った言葉」を伝えています。クリスチャンと御言葉の間には聖霊による共感関係がありますから、聖書を読むとき御言葉の聖霊と、クリスチャンにある聖霊が呼応して共感作用を起こします。その結果、クリスチャンに御言葉の意味を理解させ、キリストを信じさせる力を呼び起こし、キリストを目指す信仰を成長させます。クリスチャンなら誰でも聖霊が働いているので、御霊は常にクリスチャンの信仰を見守り、災いの時には助け主を遣わし、悩みや不安な時には御言葉を与えて、絶えずイエス様のもとイエス様のもとへと導きます。
最近亡くなった俳優の大滝秀治さんは、脚本を何度も読み返して脚本の言葉を全身に浸み込ませました。言葉がからだ全体に浸み込むまで徹底的に読み込まないと役作りは出来ないと語っていました。大滝さんは言葉のうちに潜む霊的な関わりをよく理解していたので、観客を感動させることができました。
伝統的なユダヤ人は、子供が3歳になると父親が聖書を開いて蜂蜜を一滴だけ落として、子供に口づけさせ「この本はあなたにとって蜜のように甘く、一生の友となる。」と教えます。そして、御言葉を日々暗記して心に蓄えるように指導します。そして、男子が13歳、女子が12歳になると自分が覚えた聖書の個所をシナゴーク(ユダヤ教の教会堂)で朗読し、自分なりの解釈を加えます。そして、ラビや会衆から自分が覚えた御言葉や解釈について二三のやり取りがあった後、大人として認められることになります。こうして、子供たちは本格的に世の知識や聖書の知識を学ぶようになるのです。イエス様はルカ2章においてこの「バー・ミツバ」という儀式を行っています。
イスラムおいては子供の頃からコーランを徹底的に暗記させられます。コーランは彼らにとってはいのちであり人生なのです。仏教においても、「般若心経」の霊的働きを重視して写経を積極的に勧めています。つまり、言葉に宿る霊的存在との関わりを通して、全人格的な霊的な生き方を高めようと努めているのです。
私たちは、御言葉に潜んでいる途方もない知恵や力に全く気づいていません。御言葉には私たちクリスチャンが考えている以上の超越した知恵や力が隠されています。聖書で「秘められている財宝」とか「隠された宝」と言っているのはこのことです。名を馳せた人々の中には、御言葉の聖霊に接触し、圧倒するほどの知恵と力をいただいて、御霊に導かれて活躍した人たちが何人もいます。実業家、政治家、学者、科学者、アーティスト、映画監督・・・。彼らは御言葉をしっかり暗記して心に蓄え、聖霊との関わりの中で御言葉に隠された財宝を引き出して世の中に挑んでいきました。
聖書には、私たちが人生を切り開いていくために必要なすべての知恵と力が隠されています。父なる神は弱い私たちが厳しい人生を送るに際して、困らないように、窮することのないようにと密かに神の知恵と力を聖書に託してくださったのです。
まさに御言葉は「力ある言葉」、「知恵の泉」なのです。御言葉を暗記して、このお方を魂に注ぎ入れて復活させるなら、今までとは全く違う力強い人生となるでしょう。ちなみに、霊的には旧約は父の時代、新約は子の時代、使徒時代は聖霊の時代です。現在は使徒の時代であって、聖霊の時代でもあり、御言葉の時代でもあるのです。
なお、御言葉を暗記するひとつの方法として、国際ナビゲーターという宣教団体が販売している「聖句暗記カード」はよくまとまっています。基本的な御言葉が口語訳、新改訳で印刷されているので御言葉を暗記するには何かと便利です。
これから、私たちはカオスの時代を生きていくことになります。そのためには霊的な体力をつけ、何があっても動じない「根」のある信仰を持って生きていかなければなりません。そのためには毎日少しの時間、信仰のために霊的な投資が必要だと思います。
今回、聖霊が導いてくれた御言葉は【テモテⅡ3:16、ペテロⅡ1:21、詩篇1:2~3、黙示録3:20、ヨハネ10:35~36、コリントⅠ6:19、出エジプト記25:21~22、ルカ2:46~47、イザヤ45:3】です。本当に短い聖句ですが霊的には奥深く、隠された宝としても余りある御言葉です。参考にしてください。
Posted by 名も亡き者 at 2012年10月31日 17:32
佐々木先生、名も亡き者さん、皆様、ありがとうございます。
今、静まって、御言葉を学んでいます。
御言葉に照らされて、
あるがままの自分を知り、
主イエスの救い、という測りがたい恵みを、
もっと理解できるようになりたい、と思います。
思い上がることも、卑屈になることもなくなるように、
究極の将来にある希望を忘れないように、
新しい心で生きることを求めていきます。
今、静まって、御言葉を学んでいます。
御言葉に照らされて、
あるがままの自分を知り、
主イエスの救い、という測りがたい恵みを、
もっと理解できるようになりたい、と思います。
思い上がることも、卑屈になることもなくなるように、
究極の将来にある希望を忘れないように、
新しい心で生きることを求めていきます。
Posted by haru at 2012年11月03日 01:11
私はいつもゴール寸前に疲れ果ててあきらめていました。今年はゴールインするまであきらめないでやりつづけてみます。
Posted by トシオ at 2014年01月07日 12:26