2012年06月25日

 人生は出会いで決まる」 その③


5. 獄中でのさまざまな人との出会い

刑務所の中では、養護工場にて刑務作業をすると共に、

ボランティアで24時間体制の認知症・身体障害者・高齢者等

のしもの世話・入浴・着替えなどの様々な介護をしてきました。


受刑者の多くは、孤独で、心の頑なな人たちで、

愛に飢え、義に飢えていました。

私たち受刑者は、本当は寂しいのに、

なかなか素直になれないのです。

決して自分の弱さを見せることをしません。

自分の弱さを他の受刑者たちに見せると、いじめに合うのです。


惨いいじめをたくさん見ましたが、当初は私は何もできず、

助けてあげることもできませんでした。

自分が、いかに愛がない人間であるかということを嫌というほど知りました。

それに関われば自分がいじめを受ける対象になるということを恐れたのです。

だから、見て見ぬふりをしていました。


しかし、そんな私にも拘らず、

いじめを受けた受刑者たちは、

私に優しく接してくれました。

そんな中で、イエス様の愛を徹底的に学ぶことができました。


10年という長期受刑中、言葉ではとうてい言いつくせない、色々な試練がありました。

「死んだ方がよほどましだ!」 と思ったことも、何度もありました。

私は自分の要求を通さないと気が済まない性分ですので、

受刑者に対する不当な対応について、よく監獄の刑務官とぶつかりました。

いじめをする他の受刑者たちともぶつかるようになりました。


その都度、私が悪者とされ、制裁として、窓もない地下室の独房に入れられました。

暖房もないため、冬はとても寒くて、凍え死ぬのではないかと思ったこともありました。

しかし、独房でも、毎日聖書を読み、神に祈ることで、助けられ、支えられてきました。


聖書のヘブライ人の手 紙12:5-8の、

「『わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。 

主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。

なぜなら、主は愛するものを皆、鞭打たれるからである』

あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。

神は、あなたがたを子として取り扱っておられます」

というみ言葉が、とても心の支えになりました。


この受刑生活を通じて、

神様から多くの恵みをいただき、

お金では買えない最高のもの、

神様の 「永遠の命」 をいただきました。

こんな極悪非道な私にも関わらず、

永遠の愛を持って慈しみを注いでくださる神様と

親しい関係を持つことができたのです。


聖書のローマの信徒への手紙5:3-5に

「そればかりではなく、

苦難をも誇りとします。

私たちは知っているのです。

苦難は忍耐を、忍耐は練達を、

練達は希望を生むということを。

希望は私たちを欺くことがありません。

私たちに与えられた聖霊によって、

神の愛が私たちの心に注がれているからです」

とありますが、

これを実体験しながら生きてきました。


私はイエス様が大好きです。

イエス様は、一日として私から離れることなく、

毎日24時間、獄中で私と一緒に生活し、

苦しみと失望とを共有してくださいました。


イエス様がともにいてくださったから、

私は長期刑の寂しさや悔しさに耐えられたのです。

だから、仲間の受刑者たちにイエス様のことを熱心に伝えました。

なぜなら、イエス様しか、受刑者を罪の性質から

根本的に解放することができないからです。


罪はアリ地獄と同じで、どんなにもがいても、

そこから抜け出すことができないのです。

彼らには愛をもってサポートしてくれる人たちが必要なのですが、

刑務所の中にはそんなサポーターは一人もいません。

多くの受刑者は獄中でもっと傷つき、もっと悪くなって、

出所後もまた罪を犯してしまうのです。

私がそのよい実例でした。


日本の犯罪者の再犯率はとても高く、

60%くらいだと聞きます。

60歳以上の受刑者は社会復帰後、2年から5年で、

ほとんどの方が刑務所に戻ってくるのです。

だから、再犯率が減少しないのも当然だと思います。


(つづく)



Posted by アブラハムささき at 20:10│Comments(2)
この記事へのコメント
堀の中の生活は別世界であると感じると同時に、同じだなーと感じます。

再犯率の高い受刑者のフォローとサポートは必要だなーと思わされます。

先日の、大阪での通り魔殺人犯のような人が再び出ないようにしないといけないと思います。
Posted by 出前牧師カンちゃんこと菅野直基 at 2012年06月25日 22:21
この世で人間関係を良好に保とうと思えば、心の弱さや醜さを見せないようにすることが、暗黙の鉄則だと思います。「特別な人」との間でも、お互いを受け入れ合うには限界があると思います。そして、心の奥では孤独を感じているのだけれど、それを認めるのもなかなかできない・・と思います。でも、イエス様は違うのですね。イエス様は違う、あの人とも私とも違って、どこどこまでも本音の部分を聞き取ろう、寄り添おうとしてくださっている・・。そう気づかされた時、「今ここ」が全く違うもの、天国に続く道程に見えてくるのでしょうか・・。

刑務所という極限の場所を、イエス様によって全く違う場所にしていただいた方の証は、本当に力強く、心に響きます。ありがとうございます。
Posted by haru at 2012年06月27日 15:18
 
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