2012年06月03日

 「環境を超えた感謝」


  ・・・  「しかし、私は主にあって喜び勇み、

       私の救いの神にあって喜ぼう」

        (旧約聖書・ハバクク書 3:18)


木は日照りの時に根を深く張り、

冬の冷たい風によって丈夫になり、

夏の暴風雨と暑さに耐えてこそ、

良い実を結ぶようになります。


苦しみの時の感謝は、

私たちを成長させます。


1. 喜びだけでなく、悲しみをも感謝しよう。

2. 成功だけでなく、失敗をも感謝しよう。

3. 問題に悩まされていることに、感謝しよう。

   (解決していなくても)

4. 豊かな時だけでなく、足りない時も感謝しよう。

5. いらだたせる人にも、感謝しよう。

6. 天候が悪いことにも、感謝しよう。

7. 思った通りにいかなくても、感謝しよう。

8. 健康だけでなく、体の痛みも感謝しよう。

9. 孤独なことにも、感謝しよう。

10.命にだけでなく、死をも感謝しよう。


( 「幸いな人カレンダー2012 ・・ 365日一生感謝」 より)




Posted by アブラハムささき at 14:16│Comments(16)
この記事へのコメント
ささき先生


幸いな人のカレンダーからのシェアを感謝致します。

>>木は日照りの時に根を深く張り、

  冬の冷たい風によって丈夫になり、

  夏の暴風雨と暑さに耐えてこそ、

  良い実を結ぶようになります。

というところに、すごく感じるものがあります。

試練の中で人は成長させて頂けるんですね。


菅野直基(-^〇^-)
Posted by 出前牧師カンちゃんこと菅野直基 at 2012年06月03日 14:20
一生感謝!!

起きてしまったこと事、

今、起きている事、

そしてこれから起ころうろうとしている事、

全てに感謝ですね。


特にビジネス上で、

人間対人間で相手が怒っている事、

そして自分が怒ろうとしていた事、

このタイミングでメッセージ頂いた事を感謝します。

※ 相手が怒ったのは過去形で、僕が怒ろうとしていたのは、実は明日なん

です。

祭りの騒ぎで 昼寝出来なかった事にも 怒っていました(^-^)

                                  OBAMA
Posted by 小濱 敏雄 at 2012年06月03日 15:52
佐々木満男先生

「環境を越えた感謝」の文書を読ませて頂いて
感謝します。

「喜びだけでなく、悲しみをも感謝。
成功だけでなく、失敗も感謝。
問題に悩まされていることも感謝。
解決しなくても感謝。
思ったとおり行かなくても感謝。
孤独なことも感謝。
命だけでなく、死も感謝。」

今まで自分に都合がいいときだけ感謝でした。
都合が悪い、自分に不利益なときも感謝ですね。
ここまで来ると何でも感謝ですね。
人に裏切られても感謝。
名誉を傷つけらても感謝。
馬鹿にされても感謝。

ビジネスで失敗しても感謝。能力が乏しいのも感謝。
他人に良いことができ無くても感謝。
神の御心で、そうさせてもらえないから感謝
人に迷惑かけても感謝。そうしかできない自分だから、
神様は許してくださると信じます。
良い仕事ができなかった。これも許るされるでしょうか。

感謝とは何でしょうか。これが神がよしとされることだと
確信することでしょうか。
神が天地万物を造られて、「はなはだ良かった」と
言われた、あの「良かった」事でしょうか。
貴方のなしたこと「ははなはだ良かった」のですね。
私たちのなしたこと(されたこと)も「はなはだ良かった」
と言われる、あの「良かった」ですね。

「死んでも感謝」は衝撃的でした。「生きる」ことが是とする
のがキリスト者の大方の意見だからです。
霊的に永遠に生きるから、肉体的に死んでも、感謝と
言うことになるのでしょうか。

何をなしても悪いことはない。しなかった方が良かったと
言うことがあるでしょうか。
したことも、しなかったことも、全てが良かった。
全てが感謝。自堕落、ずぼら、怠けも感謝。仕事に専念しな
かったことも感謝。しっかりしなかった事も感謝。

私の人生は失敗の連続でした。この世的に、いわゆる
成功しなかったのです。自分に甘く、責任ある仕事もしなかった、
いや、できなかった。自分にムチ打って真面目にやろうとして
も失敗。失敗の連続でした。もう、自分自身を投げ出したくなる
人生でした。私はいつも敗北感にさいなまれていました。
誰が私の人生を良かったと言ってくれるでしょうか。

イエス様が「小林政和よ、貴方の人生の全てを知っている。
貴方が調子良いこと言って虚栄心に走り、人に無礼なこと
言ったり、自己中心的な考え方しかできないで、人と仲良く
付き合えないことも、全てを知っている。それでも、貴方を赦し、
受け入れ『良し』」とする。」仰ってくださったのです。

失敗して、「あんなことしなければ良かった」と自分を責める
ことが多い私にとって、「あれで良かった」と言われる時、
解放された喜びを味わいました。これが最大の感謝です。
正に365日一生万事感謝ですね。

小林政和
高津キリスト教会
Posted by 小林 政和 at 2012年06月04日 13:57
今日、就職の面接だったのですが、散々面接官に罵倒されて、本当に死にたくなりました。
でも、感謝ですね。この出来事も、素晴らしい出来事につながっていくという・・・(T_T)
Posted by raru at 2012年06月06日 01:50
仕事もせずに、先生のブログを遡って読んでいました。

先生のブログも素晴らしいですが、阿部さんの書き込みを読んだり、

raru さんの書き込みを読んだりして、自分の過去の書き込みも読んでいました。

うーん なかなか 良い事 書いているじゃないか。と自己満足・・・

ところが、その次には ドーンと落ち込んだ書き込み・・

情緒不安定・・統合失調症 まさにその通りです。

しかし、その僕がついにやりました。

raruさん そうですね。全て感謝ですね。

しかし必ず素晴らしい出来ごとに繋がっていくと言う事を常に、冷静に忘れな

い事が大切だと思います。

ありがとう、感謝します。これが素直に言えるような人間を目指しています。

raruさんも、丁度良い時に、一番ふさわしい仕事に就職できる事をお祈りしま

す。                                 オバマ
Posted by Obama at 2012年06月07日 02:01
私も、オバマさんと同じく、佐々木先生のメッセージと共に、皆さんの書き込みを読むのが楽しみです。自分の弱さや醜さを、ありのままに認める勇気をもらい、同時に前向きになれます。私だけじゃないんだな!人生の先輩もそうなんだな!って・・。

「環境を越えた感謝」を読んで、これぞまさに神様が私に求めておられることだろうな!と思いました。実行はまだまだですが・・。でも、少しずつ私なりに分かってきました。結局、神様を信頼すること、見上げ続けること、なのかな、と。

自分の価値観で、自分を喜ばせようと躍起になるのでなく、まことの神、イエス様は愛であり、真実な方だから、今は苦しくても、人から認められるような輝かしいものは持っていなくても、神は「最善」を計画しておられることを信じること。神様を信じて、握り締めている「自尊心」から来る恨み・辛みを手放すこと。神が必要を与えてくださることを信じて、人を思いやること。それが神を喜ばせることだから・・。

個人的に時々元気をもらっているサイトのURLを貼らせていただきます。
http://knowinggod-japan.jesus.net/interview-with-god/

raruさんの就職活動にも、主の善きご計画がなりますように、お祈りします。
Posted by haru at 2012年06月09日 01:12
昨日、知人に招かれて在日タイ大使公館にて大使夫人のお話を聞きました。
タイは最も親日的な国の一つです。

「タイ人は変化に柔軟に対応する民族です」 としきりに強調していました。

「突然のスコールのどしゃ降りに見舞われるとすべての交通機関がストップしてしまう。 そのような状況の中で、柔軟に対応することが必要とされてきた」

「政治や経済の変化はあっても、タイ王国では王が国民の98%の支持を受けて尊敬されている。 だから、タイ民族は基本的に安定している」

大使夫人の説明を聞いて、なるほどと納得しました。

聖書によれば、キリストはきのうも今日もいつまでも変わることのない全宇宙万物の王の王です。 この世にあってさまざなな変化の中で柔軟に対応しつつ、王の王なるキリストをあがめて生きるところに、クリスチャンは基本的な安定をえているのだと思わされました。
Posted by ささき at 2012年06月09日 14:46
あることをきっかけに、私は「救い」というものを、地上目線・自分目線でしか捉えていないことに気づかされました。イエス様がくださる「救い」というのは、もっと深いことなのですよね・・。
Posted by haru at 2012年06月09日 21:25
イエスさまの救いとは、永遠の神の王国の国民とされることだと思います。

父なる神の子どもとなることです。

わたしたちの本当の国籍は天国にあるのであって、この地上の生活は天国に至る旅路にすぎないと、聖書には書かれています。
Posted by イチロー at 2012年06月09日 22:00
イチローさん、コメントありがとうございます。

毎日のニュースを見ては暗い気持ちになり、刹那的と分かっていても、飲食や睡眠その他で気をまぎらわそうとしている自分がいます。けれど、確かに、聖書にはそうありますね。イエス様が、私の罪のために、十字架にかかってくださったことを信じる・・・。ただそれだけで、神の救いは与えられると・・。

本当に、人間の感覚としては、不思議としか言いようがありませんが、でも、人に見せられない感情が時に湧き上がる、罪からなかなか自由になれない自分も、有史以来ずっと殺し合いを続ける世界も、このままで良いとはとても思えません。神が愛なら、きっとこのままで良い、とは思わないはず・・と想像しています。

20年以上前に洗礼を頂きましたが、それから色々なことがあるうちに、分からなくなってしまいました。自分が救われているのか、正直分からないです。でもなぜか、イエス様や聖書の話を聴いたり、賛美歌を聴くと、心が慰められ、励まされます・・。

結局、心・魂は永遠の存在だから、その行き先が大事、ということでしょうか?
Posted by haru at 2012年06月10日 23:21
万物の創造者・父なる神、救い主・イエス・キリスト、助け主・聖霊、これらすべては聖霊の言葉が根拠です。

聖書を頭で読むのか、それとも心で読むのか。聖書の言葉を頭で理解するのか、それとも心から納得するのか。

この辺に違いがあるようです。
Posted by ささき at 2012年06月12日 04:02
佐々木先生、ありがとうございます。

そうですね。たぶん、「頭信仰」つまり、心の底から信じることができてない、もっと言えば、自分を明け渡す・・自分の願いを捨て去って、イエス様に従う覚悟ができていないように思います。でも、心の飢え乾きの中で、神様の存在、愛や慰めを必要としている、という中途半端な状態なのだと思います。

「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」というイエス様の忠告を、素直に聞く者になりたいです。たぶん、何度も失敗すると思いますが・・。

考えてみれば、秋の空より変わりやすい自分の不安定な感情・人間性に信頼するより、自分を愛さない人のためにさえ、過酷な死を受け入れるほどに誠実で、愛のある神を信頼する方が、よほど賢いのですよね・・。
Posted by haru at 2012年06月13日 00:07
神は、神学者が語るような、「神学の神」ではありません。
哲学者が語るような、「理念の神」ではありません。
ニューエイジが語るような、「力、原理、法則の神」ではありません。

聖書の語る神は、「現実に生ける人格をもつ愛の神」です。
現実に、私たち一人一人の罪を赦すために、身代わりとして、鞭で打たれ、十字架にかかり、血を流し、命を犠牲にしてくださったお方です。

神は霊ですから、目に見えないだけで、場面に応じて、父として、夫として、兄として、牧師として、教師として、医師として、弁護士として、友として、、、、、さまざまに現れてくださいます。

日常生活の中で、私たちの、心の中に、体のそばに、いつも現実にいてくださるお方です。

熱心に慕い求めていけば、そのお方に必ず出会うことができます、言いかえれば、そのお方がおられることに気がつくことができます。

私たちは、この神の中に生き、動き、存在しています。
神もまた、私たちの仲に生き、動き、存在しています。
Posted by ささき at 2012年06月13日 01:13
佐々木先生

お礼が遅くなってしまいましたが、度々のメッセージをありがとうございました。「神は生きておられる!」と確信を持って、生きておられる方がおられることは、消えそうな灯火を持つ者として、とても励まされます。しばらく、昔のことを振り返っていました・・。

小学生の頃から、「幸せとは?人間とは?この世界とは?」と一人悶々と、「哲学」してきました。幸せについて思ったことは、私が「幸せ」になるには、母が「幸せ」にならなくてはならない、と気づきました。またそのためには、父が変わらなくてはならない、と気づきました。子供なりに努力しましたが、そんなことでは何も変わらないことも分かりました。ただ、人は一人では「幸せ」にはなれないんだ・・という「原則」のようなものだけ分かりました。おしゃべり、とか体を動かしてリフレッシュする、ということは苦手で、一人で本を読んでは、「納得」を求めて考えるのが好きでした。

人は生まれては死に、その人を覚えていた人も死に、多くの人の記憶は一部の例外を残し、ほとんど残らない。地球にも寿命があるなら残せない。それなら、今ここに生きている「私」は結局何なのだろう・・とずっと考えていた時、風が吹いて、夕陽が美しく輝いた日のことを思い出しました。その時、急に「閃き」があり、「この世界は、『見えないもの』を現すために存在している!」と喜びと共に「分かった」ことがありました。まだ、教会も、聖書も知りませんでしたが、その2年後、一枚のチラシをきっかけに母が救われ、私も教会に行くようになり、高校の時に洗礼をいただきました。

当初、「主に仕える!」と喜んでいました。けれど、大学では次第に「『神』とは抽象概念であり、その捉え方は人それぞれ・・。」という「アカデミズム」のようなものに走り、私自身の不徳で、自分勝手を「自由」と思い、生活するようになりました。最初はラクになった、と楽しいような気がしていましたが、だんだん虚しくなり、どうしようもなく落ち込んで、ものが考えられないようになる「鬱」になりました。

色々な本を読んだり、健康法を試したり、気晴らしに励んだりしましたが、ますますひどくなり、「世間に見せる明るい顔」と「本心の暗く重たい気持ち」のギャップが限界まで広がり、リタイアしました。今は、その「リハビリ」で、自分の主に対する不誠実を悔い改めている過程です・・。ですから、まだ救われてはいないのでしょうし、「本当の意味で」イエス様に出会っていない、のだろうと思います。ただ、理屈は分かりませんが、一番鬱がひどかった頃、考えることも祈ることもできず、ただ聖書に手を触れて倒れこんだ時、久しぶりに良く眠れたことだけ、覚えています。

私は理屈っぽい人間ですが、最終的には理屈ではないのだろう・・ということは感じています。長々と書いてしまいましたが、反面教師として、誰かの何かの参考になったらいいな・・と思って書きました。しばらく静まって、主に心を向けたいと思います。ありがとうございました。
Posted by haru at 2012年06月16日 17:51
久しぶりにこのブログの過去記事を読んで勇気をいただきました。感謝します。
Posted by 横道 at 2014年01月27日 01:52
久しぶりにこのブログの過去記事を読んで勇気をいただきました。感謝します。
Posted by 横道 at 2014年01月27日 01:52
 
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