2011年10月24日

 「アルコール依存症よ、さようなら!」


< 2009年、ローリングヒルズ・カベナント教会でのMK氏のスピーチに、加筆修正したものです >


皆さん、こんにちは。

聖書は、 「自分の弱さを誇る」 ことを勧めています。

自分の弱い所にこそ、神様が大いに働いて下さり、

そこに神様の素晴らしさが現されると、聖書は約束しています。

私はつい最近、それを体験しましたので、

今日は、皆さんの前で、思いっきり自分の弱さを暴露し、

愚かで弱い私に働いて下さった神様の素晴らしさをお話します。

 
私は長年、アルコール依存症でした。

仕事でのプレッシャーやストレスが大きくなると、

どうしてもアルコールを飲みたくなりました。

アルコールを飲むと一時的に気分が良くなり、

ストレスやプレッシャーから開放されたような気分になるからです。

しかし、実際は、アルコールを飲んでも、問題が解決するわけでもなく、

酔うことで一時的に忘れることができるだけです。

そこには、アルコールに逃げている自分がありました。

私は性格上、逃げることが大嫌いなため、

アルコールに逃げている自分に対して、大きな嫌悪感がありました。

二日酔いによる体調の悪さ、気持ちの落ち込み、などの理由で、

今までに何度もアルコールを止めようと思いました。

でも、私のアルコールの歴史は長く、そう簡単にはいきませんでした。

 
高校生の頃から野球部の仲間と飲み始めました。

高校三年のある日、野球部仲間の家で、野球盤というゲームをやりました。

一点取られるごとに、 「グラス一杯一気飲み」 という非常に危険なルールでした。

当時、 「アカネちゃん」 という安いウオッカが我々の間ではやっていました。

ゲーム開始後、3回裏だったのか4回表だったのか、はっきりと憶えておりませんが、

それまでに7、8点を取られて、「アカネちゃん」 を7、8杯を飲んでいました。

そして意識不明、急性アルコール中毒で倒れました。

大学一年の時にも、渋谷駅前の居酒屋で倒れ、救急車が来たのですが、

友達が、救急車の来るのが遅かったことに腹を立て (勿論、彼も酔っ払っていました)、

救急隊員に頭突きをしてしまったため、彼らは怒って帰ってしまったそうです。

その後、何台ものタクシーに断られましたが、ようやく心の優しい運転手を見つけ、

私を広尾病院にかつぎ込んでくれたそうです。

広尾病院で一泊。 点滴を何本か打たれたようです。

翌朝、全く見知らぬところで目が覚めてびっくりしました。

目が覚めるやいなや、友人のK君が、 

「お前、生きててよかった!」 と言って、涙ぐんでいました。

「お前が死ぬかと思って、夜中にお前の家に電話したよ」 とK君が言いました。

K君の電話を受けた私の父は、津田沼から渋谷までタクシーですっ飛んで来たそうです。

タクシー代が何万円もするような、大変な距離です。

意識不明で病院のベッドに寝ている私を見て、

「生きているならいい。 K君頼むぞ!」

と言って帰ったそうです。

その話を聞いて私は恐ろしくなり、 

「なんで、お前はうちのオヤジに電話なんかしたんだ!」

と言って、K君を責め立てました。

その後、家に帰るのが恐ろしくて、友達の家を2~3日転々としました。

さて、このようなエピソードは、残念ながら実はいくつもあり、

きりがないので、この辺で止めておきます。
 

大学4年生の時にクリスチャンになり、自分をもう少し大切にするようになりました。

それまでのような無茶苦茶な飲み方はしなくなりましたが、

それでもアルコールを止めることはできませんでしたし、

止める気持ちも起こりませんでした。
 
信仰が深まるにつれて、飲み方が上手になりました。

クリスチャンとしての自覚があるので、

人前で酔っ払うことに抵抗を感じるようになりました。

飲んでも、二日酔いにならない程度で止めることが、随分とできるようになりました。

それでも、アルコールの力に負けて、飲みすぎ、二日酔いが時々ありました。

 
私の問題は、アルコールに飲まれてしまうことです。

聖書では、ぶどう酒は祝福の象徴です。

イエス・キリストも、カナの婚礼でぶどう酒がなくなってしまった時に、

「水をぶどう酒に変える」 という奇蹟をなさいました。

ですので、アルコール自体は悪いものではありません。
 
しかし、聖書には 「酒に酔ってはいけません」 と書かれており、

お酒にコントロールされてしまうことは、良くないことなのです。
 

お酒を飲むけど、お酒に全くコントロールされない人もたくさんいますね。

私はそういう人が非常にうらやましい。

私の妻もその一人です。 

彼女は食事の前に、マティーニをグラス一杯飲んだり、

食事と共にワインをグラスに半分だけ飲んだりで止められる。

実に美しい飲み方ですね。

「私もそういう飲み方ができたらいいなぁ」 と何度も思いました。

お酒にコントロールされるのではなく、お酒をコントロールする飲み方です。

けれども、お酒に弱い私にはそれができませんでした。


過去数年間、私は自分のアルコール問題に関して、よく祈りました。

「神様、私がアルコールをコントロールできるように、強い意志力をお与え下さい」

「アルコールに対して、セルフ・コントロールを失わないように助けて下さい」

「完全にアルコールを止めることができるように助けて下さい」

いろいろな形で何度も祈ったのですが、

結局は、心の奥底では、アルコールをしっかりと握りしめて、手放したくない自分があったと思います。

自分で気付いていませんでしたが、

私にとってアルコールは、神様と同じくらい重要であったのだと思います。


さて、そんな私に先日、奇蹟が起こりました。

先々週の土曜日に、私の家で水泳クラブのミーティングがありました。

我が家ですき焼き鍋を囲んで、食べつつ飲みつつ、ミーティングを進めたわけですが、

この日私は非常に疲れていて、あっという間に酔いが回ってしまいました。

翌日曜日の朝は、ひどい二日酔いでした。

つらくはあったのですが、日曜礼拝に出るために、教会に行きました。

しかし教会への運転中に、急に気分が悪くなり、おなかが痛くなりました。

教会に着くなり牧師先生の事務所に行って、

先生に昨晩飲み過ぎて二日酔いであることをお伝えし、

「非常に具合が悪いので、今日は礼拝を休みたい」 と伝えました。

二日酔いが理由で礼拝に出席できなかったのは、これが初めてのことでした。

先生はその場で私のために祈ってくださいましたが、

あまりにも具合が悪かったので、何を祈ってくださったのかも憶えていません。

駐車場までよろよろと歩いて行きましたが、急に吐き気を催して、

車にたどり着く直前に駐車場で、吐いてしまいました。

すぐに近くの茂みの方に歩いて行き、そこで10分ぐらい吐き続けました。

もう大丈夫だろうと思って車に入って運転をし始めましたが、

また吐き気を催したため、車を止めて、車の中でさらに吐き続けました。

車の中にいつもビーチタオルを携帯していることが幸いしました。


教会の駐車場で吐いた人間は、未だかつて私一人ではないかと思います。
 
家に帰って、月曜日の朝まで約19時間寝ました。

すっかり気分が良くなったので、月曜日は通常通り会社に行き、

また水泳クラブの練習会にも参加しました。

もう体調を取り戻したと思ったのですが、

夕方近くまたおなかが痛くなり、早退しました。


家に帰る前に、急に祈りたくなったので、山の上の静かなところに行きました。

こんなにぶざまな経験をしたのにも関わらず、

私の祈りは 「アルコールに打ち勝つセルフ・コントロールの力をお与え下さい!」 でした。

私にとってアルコールは、神様と同じくらい大切で、手放させないものだったのです。

 
「もうアルコールを完全に止めたらどうか?」 

という声を聞いて、翌朝目が覚めました。 朝4:00 でした。

この声は、肉声で聞いたものではなく、心の耳に聞こえたものでした。

私は、 「これは神の声かもしれない」 と思い、真剣に受け止めました。

ベッドの中で祈りました。

「これは神様の声でしょうか? もしそうなら、私はアルコールを止めたいと思います」

からだの調子がまだ本調子でなかったので、私はベッドの中、いろいろ考えました。

朝6時少し前に、

「 デニーズで 無料の朝食を出しているので、行きましょう!」

と言って、妻がみんなを起こし始めました。

テレビのニュースで、そんなコマーシャルがあったそうです。

車で デニーズ に向かう途中、中学生の娘から、

“お腹の調子はどう?”  と聞かれました。

この2日間、娘から何度かこの質問をされて、父親として非常に恥ずかしい思いでした。

私は 娘 に、 “心配してくれてありがとう、もう大丈夫だよ”   と言いました。

すると 娘 は、静かに、  “お父さん、お酒は止めた方がいいよ!”  と言いました。

私はすぐに、今朝4時に聞いた声の内容と同じことを言われていることに、気付きました。

新約聖書へブル書3章7節のことばを思い出しました。

『きょう、もし御声を聞くならば、

荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたように、

心をかたくなにしてはならない』

デニーズ に向かう途中で、私はアルコールを完全に止めることを決心しました。
 
デニーズ に着くと長蛇の列。 6時20分頃に着いて、テーブルに着いたのは7時半近くでした。

その間約一時間、私は作戦を立てました。

『今度こそ絶対にアルコールを止める作戦』 

というのは、今までに何度も止めようとして、何度も失敗しているからです。

作戦は決まりました。 「この決心を数人の人に話してしまおう」 というものです。

テーブルに着くと早速、妻と子供たちに話しました。

「 娘がお父さんに言ったことばを、神様からの声として受け止め、今後、アルコールを完全に止めるよ!」

と宣言しました。

デニーズ を出て、娘を学校で降ろした後、私はすぐに家に帰って聖書を開きました。

聖書のことばのバックアップとサポートを望みました。

その日の日課で読んだ聖書の言葉は

「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」。
 
アルコールを止めるという志を立てさせて下さったのは神様であること、

また、それを実行していく力を与えて下さるのも神様であること、

を確信しました。


その日の午後、牧師先生の事務所に行って、禁酒決心の話をしました。

先生は私の決心を非常に喜んで下さり、次の聖書のことばを下さいました。

『兄弟たちは、小羊の血と、自分のあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った』

ここでいう彼とは、サタンのことです。

つまり、サタンの誘惑に打ち勝つためには、イエスの血の力と自分の証言が必要であるということです。

牧師先生は、続けて言いました。

「MKさん、証しする相手を何人か選ばれたと言われましたが、

あなたが話し易い人だけにこの証しをしても、それでは充分ではありません。

そんなことでサタンは簡単に引き下がりませんよ。

あなたは、礼拝で皆さんの前で証言することはできますか?」

「え~、教会でゲロを吐いたって言う話を、みんなの前でするんですか~?」

と言いたい気持ちになりましたが、そこはグッと抑えて、

牧師先生からのアドバイスを神様からのアドバイスとして受け止め、

「はい、やります!」 と答えました。

というわけで、今、ここで皆さんの前でお話しているわけです。


教会の駐車場で吐いてしまったことは、偶然の出来事ではないと思います。

教会から帰ってから家で吐くことも有り得たわけだし、

また、教会に行く前に吐いていれば、教会を休むだけで済んだかもしれません。
 
かつて何度もアルコールで失敗をしていながら、それでも心を頑なにしていた頑固者の私には、

こういうことでも起こらなければ、止める決心をしないことを、神様はよく御存知だったのです。

 
皆さん、何か握りしめて手放したくない悪い罪、悪いくせ、悪いパターンをお持ちではないでしょうか?

神様から手放した方が良いと示されているにも関わらず、どうしても手放せないものがないでしょうか?

私のように、とても痛い思いをする前に、そして非常に恥ずかしい思いをする前に、

皆さんが 「握りしめているもの」 を神様に明け渡すことを、強くお勧めします。


「皆さんの前で話します!」 と牧師先生に約束をした後、

先生は私の肩に手を置いて祈って下さいました。

祈っていただいた後、肩から重荷が下りた感じで、本当に身体が楽になりました。

そのことを先生に伝えると、

『だれでも重荷を負って苦労している者は、わたしのもとに来なさい。 

わたしが休ませてあげよう。 そして、わたしから学びなさい。

わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです』

というイエスの言葉を教えてくれました。 本当にその通りです。
 

私は聖書でいう 「二心の者」 でした。

「神」 と 「アルコール」 の二人を、自分の主人としておりました。

二人の主人に仕えていたので、非常に苦しかったのです。

アルコールを完全に止める決心をし、もうすでに何人かの人にこの話をしましたが、

まさにアルコールの奴隷であった私が、開放されて自由になったような気分です。

今、酔ってる時より、気持ちがいいです!

「アルコール依存症よ、さようなら!」





Posted by アブラハムささき at 02:09│Comments(3)
この記事へのコメント
良い証を読ませていただきました。

Mkさんのアルコールを断ち切ると言うのは なかなか出来ないものだと思います。

僕もそうですが、実は僕は 高校生の時から煙草を吸っていました。

何故か 大学に入ってからは吸っていないんです。

高校生の時は ただ 恰好つけたがり で吸っていたように思います。

昔は そう言うイメージがあったんですよ。

だからタバコがおいしいと思っていたわけではありませんから、すぐにやめる事が出来ました。

ところが、学生時代は良かったのですが、社会人になってお酒は飲み始め、

煙草も吸い始め、マージャンは仕事に行くまでやっている。

僕は当時 東芝にいましたが、発変電の部署にかわり、九州、中国の発変電

所の担当を命じられ、そこに待っていたのは 電気工事屋さんと九州の焼酎でした。

思い出すのが霧島第一、第二、第三 発電所の工事の時と、熊本だったと

記憶していますが 戸馳島と言うところにミカン畑が有るのですが、その発電所の仕事の時と、最悪はミカン畑のスプリンクラーの設置工事の時です。

昼間は僕は現場にいるだけで何もやる事が無くシーケンス図面だけを書きながら現場監督みたいな事をしていました。

現場に来ていた工事をする人は、下請けですが、身体からいつも焼酎の臭いがプンプンしている人たちでしいた。

その頃僕は、お酒は飲めなかったのですが、無理やりに 毎日酒飲みにつきあわされ、近くの民家の一部屋を長期で借りて何人もが寝泊まりしていましたので、飲まざるを得ないし、部屋は焼酎の臭いがひどくてMKさんみたいに教会では無いのですが、ゲボの毎日、挙句の果て、体調をこわして、胃潰瘍になり、入院するまでになってしまいました。

結局それが原因で会社をやめる事になり、覚えたのがお酒、それと一日に吸うたばこが30本になっていたことでした。

でも入院したおかげで酒はやめる事ができました。しかしタバコはやめる事ができなくて、隠れて吸っていました。

ところが煙草も 韓国に旅行に行った時が極寒の時で大風邪をひいてしまい、旅行に行ったもののホテルで寝ていました。
帰ってからは一本煙草を吸ってみましたが、まずくて吸えませんでした。

親父もその時に一緒に煙草はやめようとしましたが、結局止めれずに今でも吸っているようです。

そうやって 僕は酒も煙草も止める事ができましたが、問題なのは薬依存症になってしまったのです。

もともと睡眠が少なかった僕は血圧が高くて、睡眠をとるようにと言う事で、医者からハルシオン等の薬をもらいつづけ、特に会社の経営がおかしくなってきたときには、かなりの量を飲むまでになっていました。

私が死のうとしたときは80錠の睡眠薬をのんで意識が3日間戻りませんでしたが、どうしても薬を飲まないと眠れなくて、早い時間に飲んでも4~5時間は起きていますが、ただ起きているだけで、頭の中は完全にマヒしてしまって、色んな人に知らないうちにしかも夜中に電話したり、意味不明なメールを送ったりしてしまっています。

会社を経営していたころに、薬が翌日まで残って、銀行にお金を借り入れに行って、その銀行の応接室で ラリッて ここはビールも出さないのか!

と、窓口に聞こえるくらいな大きな声で、叫んでいたそうです。
その銀行では初めての出来ごとだったらしく、支店長も 僕の事を知っていて
応接室に寝せてくれていました。

その薬をいまだに止めれずに飲み続けていますが、MKさんの様に、イエス様を心から信じて、薬がいらない生活をしたいと思っています。

朝から長々と申し訳ありません。

薬のせいで 今は肝臓も悪くなり、顔の皮膚までおかしくなってきました。

                                     オバマ

Posted by OBAMA at 2011年10月24日 07:38
ささき先生


今朝も心の糧を頂きました。
昨晩頂いたメールの「ツール」より「コンテンツ」というのが
先生のスタンスなんだと感じさせられます。

スタバにて、ノート+大液晶画面でブログの記事アップ+仕事を
している姿を思い描いています。
今日も神さまの祝福が、先生とオバマさんと読者の皆さんに豊かにありますように。


菅野直基
Posted by 出前牧師カンちゃんこと菅野直基 at 2011年10月24日 10:19
神の御声は、喧騒の中には現れない。
神は、騒々しく動くもの、空虚な議論に走るもの、
神を知っていると断言するものの側を、通り過ぎていきます。

神の御声は、暗黒の静寂の中で、荒野の全き孤独の中で、
吹きまくる苦悩の中で、底知れぬ絶望の中で、
風のように現れます。

「あなたは、どこにいるのか。」
と神は、声なき声で語ります。

「はい、ここにおります。」
と私は、答えます。

神は、私に仰せられます。
「わたしは、在りて在るもの。
全なるもの。全ての全て、一切なるものである。
わたしはことばであり、声であり、語るものである。
あなたはただ黙せよ。ひたすら静まって主の声に耳を傾けなさい。」

「私はただ、ここに在るもの、土地のちりに過ぎません。
私は喧騒を離れ、人の業を離れ、世の思いを捨てて、
ただ静まってあなたの御声を待ち望みます。
耐え忍んで聴くことは神の力です。」
と私は、答えます。
Posted by eulogesai at 2011年10月26日 18:13
 
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