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2019年11月27日

「クーエの法則」


「クーエの法則」

という法則を聞いたことがあるだろうか?


「想像は思考に打ち勝つ」という法則である。

自己暗示法の創設者、

フランスの精神科医・心理学者エミール・クーエによって実証された。


人生の方向は、概ね、

自分が日々どのように考えているかによって決まってくる。


「すべてはますますよくなっていく。

すべてはますますよくなっていく。。。。。」


リラックスして繰り返し静かに

自分の心の深み(霊)にこう語りかけていると、

だんだん否定的な思いから解放され、

すべてがよくなっていくように思えてくる。

すると気力が回復し、体調もよくなり、

現実の問題に前向きに取り組む力が湧いてくる。

結果として、時間の遅速はあるが、生活のすべてがよくなってくる。


自己暗示(想像)は、その人の思考を変え、

引いてはその人の人生を変えていく。

これが「クーエの法則」である。

「法則」というよりも、正しくは、「原則」と言うべきである。


この「クーエの原則」は、聖書的な原則でもある。

「スピリット(霊)はマインド(魂・思考)を支配し、

マインドはボディ(体)を支配し、

ボディはライフ(生活)を支配する」

という法則である。


霊が健全であれば、魂が健全になり、

体が健康になり、生活が健全になる。

だから、霊の健全性を保つことが一番大切である。

もちろん、「原則」には、時と場合によっては、「例外」もある。


私たちには神から「健全な思いの霊」が与えられている。(IIテモテ1:7)

「健全な思いの霊」が強くなるほど、魂、体、生活が健全になる。

それでは、「健全な思いの霊」が強くなるには、どうしたらよいのか。

「聖書の言葉」すなわち「神の言葉」を繰り返し聞くことである。

「神の言葉」は、霊であり命であり、生かす力(強化する力)である。(ヨハネ6:63) 


「わたしはできる。わたしはできる。。。。」 (マタイ17:20、ピリピ4:13)

と、聖書の言葉を自分の言葉にして繰り返し自分に言い聞かせていると、

本当にできるようになってくる。


「神に造られた人」、

特に、キリストを信じて「新しく造られた人」は、

「神の子」すなわち「全能の父なる神の子ども」である。

だから、どんなことでもできるはずである。

「聖書の言葉」すなわち「神の言葉」を聞くことによって、

「神の子」としての本当の自分を自覚し、

その力が引き出されてくる。

こうして、私は長年にわたり弁護士として様々な難しい問題に取り組んできた。

(以前はまったく自信がなかった)


「わたしは癒されている。わたしは健康である。。。。」 (イザヤ53:5、Iペテロ2:24)

神の癒しを信じ、繰り返しこう唱えることによって、

病が癒され健康を維持することもできる。

「神の子」は、完全に健康に造られているから、

病気にかかることはないはずである。


私はすでに50年も医者にかかったことがない。

健康診断も受けていない。(以前は非常に病弱であった)

「主はすべての病をいやす」(詩編103:3)、

「キリストの打ち傷によってあなたがたは癒された」(イザヤ54:5、Iペテロ2:24)

という神の言葉は、これを信じて宣言する者にとっては本当に癒しを体験する力である。


聖書にいう「告白」の本来の意味は、

「聖書の言葉」に心の底から同意して、

これを自分で宣言することである。

肯定的な自己暗示(自己宣言)は、

聖書の真実をくりかえし言い聞かせ、

本当の自分を引き出していくのである。

                      

  


Posted by アブラハムささき at 01:53Comments(4)

2019年11月27日

「一日一笑」

「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす」

(箴言17:22)


「一日一笑」

これが私のモットーである。

檻の中のオランウータンが、

観客がわざと見せる簡単な手品をガラス越しに見て、

両手を叩いて仰向けにひっくり返り大笑いしてるシーンを、

YouTubeで観た。

そんな些細なことで大笑いできるオランウータンをうらやましいと思う。


弁護士という職業柄、法廷闘争を含めて戦う場面が多い。

毎日が緊張の連続で、一日に一度も笑わないこともある。

朝の裁判に出廷する日は、

家を出る前から戦闘ムードに入ってしまい、

道行く人たちを睨み付けて歩いている自分を意識することがある。

鬼検事ならぬ鬼弁護士である。


では、闘争心旺盛で闘ったら良い結果がでるかというと、

必ずしもそうでもない。

相手も感情的になりとことん闘ってくるから、

途中で話し合いによる和解ができない。

そして、勝っても負けても、どちらかが納得できず、

控訴、上告までいってしまうことが多い。


悪と闘うことは必要である。

でも、闘いの最中にあっても、こちらが穏やかにして、

時には笑顔で対応していると、相手も穏やかになり、

自然体で話合いが進み、

あっという間に問題が和解することもある。


というわけで、

「一日に一度はお腹の底から笑おう!」

と決心して、

「一日一笑」を心がけている。

本当は、「笑えない時ほど笑うべき」なのだ。


「病は気から」と言うが、

病気の主な原因は、

心配、不安、恐れ、怒り、妬み、憎しみ等の

暗い思いに支配されていることにあると思う。

逆に、「笑う門には福来る」と言うように、

神の究極の勝利を確信して、

平安、愛、喜び、希望、赦し、寛容、忍耐等の

明るい気持ちに満たされ、

いつも笑っていれば、病気にもならない。


おかげで、私はもう50年近く病院に行ったことがない。





  


Posted by アブラハムささき at 01:10Comments(2)

2019年11月27日

「上を向いて歩こう」


「天には星、地には花、人には愛が不可欠だ」

家庭裁判所での離婚裁判の後、最寄り駅に向かって歩いていた。

道路わきに駐車している乗用車の後部に、この言葉がペイントされている。

思わず立ち止まり、しばらく眺めていた。

夫婦の憎しみ合い、子どもの取り合い、財産の奪い合いという、

泥々した時間を過ごした後だけに、

心にジーンとしみわたり、さわやかな気分になった。

これはゲーテの言葉だと言われている。

 
天に星がなければ真っ暗闇である。

地に花がなければ生活に潤いがない。

人に愛がなければ人生は殺伐としてしまう。

創造主は、天には輝く星をちりばめ、地には美しい花を咲かせ、

人々はお互いに愛し合うように、造ってくださった。

それなのに、私たちは、星にも花にも愛にも、あまりにも無関心ではないか。


「創造のもの凄さ」

とても深刻な問題を抱えた人の法律相談をしていた時のことである。

その人はあまり悩んでいないようだった。

ただ、法律的な手続きを聞きにきたのだ。

不思議に思って、その人に聞いてみた。


「ご趣味はなんですか?」

「星を見ることです」

「プラネタリウムかどこかで見るのですか?」

「いいえ、時々山に登って、望遠鏡で夜空の星を見ます」

「どうしてそんなに星に興味があるのですか?」

「宝石のように輝く宏大な星空を眺めていると、

神様の創造の凄さに圧倒されてしまいます。

そうしていると、嫌なことを忘れてしまうんです」

「そうなんですか」

「問題がどんどん小さくなってくるんです。

どうしてこんな些細な問題に悩んでいるんだろうって思えてきます」


「上を向いて歩こう」

その話を聞いてから、

背筋を伸ばし、胸を張り、上を向いて歩くようにした。

天には太陽も輝いている。

天気の良い日は青い空が広がっている。

真っ白な雲が浮かんでいる。

暗い雲で覆われる日もあるが、

天からは時に応じて恵みの雨が降ってくる。

上を向いて歩いていると、

悩みで縮こまっている心が解放され、

おおらかになってくる。

気分がよくなると、悩みは消えてしまう。


私は飛行機の窓から地表を見下ろして眺めるのが好きだ。

野山や河川がきれいに造られた箱庭の中で、

マッチ箱の家が立ち並んでいる。

細長い道路をおもちゃの車が走っている。

小さな工場から煙が立ち上っている。

そんな中で、人々が暮らしている。

まるでメルヘンの世界だ。

ずっと眺めていると、自分の問題が小さく思えてくる。


天の父の壮大な創造の中に生かされていながら、

神の子どもである私たちは、あまりにも些細なことにこだわっていないだろうか。

なぜ赦し合うことができないのか。

なぜ愛し合うことができないのか。

なぜ仲良く生活できないのか。


いつも天を見上げて、創造主の偉大な愛の注ぎを受けよう。

心がおおらかになれば、道の片隅に咲いている小さな花にも目がとまる。

ちゅんちゅん鳴いている街路樹の一羽の雀にも思いが向く。

花や雀に、「おはよう!」と笑顔で挨拶したくなる。

こうして神の天地創造のすばらしさに感動し、

心から賛美と喜びがあふれてくる。

敵対している人をも赦す気持ちになり、

心からその人を愛することができるようになる。

だから、いつも上を向いて歩こう。


「キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい」
(コロサイ3:1)

「あなたがたは、地上にあるものを思わず、天にあるものを思いなさい」
(コロサイ3:2)



  


Posted by アブラハムささき at 00:52Comments(0)

2019年10月13日

愛の十戒

1.人はいい加減で、わからず屋で、わがままだ。
 それでも、人を愛しつづけよう。

2.良いことをすれば、利己心でしているのだと責められるだろう。
 それでも、良いことをしつづけよう。

3.成功すれば、偽りの友と本物の敵が寄ってくるだろう
 それでも、成功しつづけよう。

4.今日の善い行いは明日には忘れ去られてしまうだろう。 
 それでも、善いことをやりつづけよう。

5.正直で率直に生きようとすれば、傷つくことがあるだろう。
 それでも、正直で率直でありつづけよう。

6.大きな考えの人は、小さな心の人に攻撃されるだろう。
 それでも、大きな考えを持ちつづけよう。

7.人は弱者をひいきにはするが、勝者にしかついていかないだろう。
 それでも、弱者のために戦いつづけよう。

8.長年かけて築いたことも、一夜にして崩れ去ってしまうかもしれない。
 それでも、築きつづけよう。

9.助けを求めている人を助けても、非難されるかもしれない。
 それでも、人を助けつづけよう。

10.世のためにベストを尽くしても、ひどい仕打ちを受けるかもしれない。
 それでも、世のためにベストを尽くしつづけよう。

<ケント・M・キース 逆説の十か条 (Paradoxical Commandment)私訳>

ハーバード大学2年生のケント・M・キースは
高校生生徒会リーダーを励ますために150回以上の講演を行った。

その時に出版した「リーダーシップの逆説十ヵ条」の一部が出回り、
マザーテレサがこれを読んで感動し、
「カルカッタの孤児の家」の壁に書いて座右の銘としていた。

マザーテレサは、「愛は傷つく」と言ったが、
本物の愛を実行しようとすれば傷つくことを恐れてはならない。
傷つくことを恐れる愛は「自己愛」に過ぎず、神の愛(アガぺ)ではない。

ささき みつお(弁護士)


The Paradoxical Commandments
    by Dr. Kent M. Keith

People are illogical, unreasonable, and self-centered.
Love them anyway.

If you do good, people will accuse you of selfish ulterior motives.
Do good anyway.

If you are successful, you will win false friends and true enemies.
Succeed anyway.

The good you do today will be forgotten tomorrow.
Do good anyway.

Honesty and frankness make you vulnerable.
Be honest and frank anyway.

The biggest men and women with the biggest ideas can be shot down by the smallest men and women with the smallest minds.
Think big anyway.

People favor underdogs but follow only top dogs.
Fight for a few underdogs anyway.

What you spend years building may be destroyed overnight.
Build anyway.

People really need help but may attack you if you do help them.
Help people anyway.

Give the world the best you have and you’ll get kicked in the teeth.
Give the world the best you have anyway.




  


Posted by アブラハムささき at 01:23Comments(5)

2019年09月16日

重荷を軽くするには



1 奇跡の人

5歳で失明した少女は、8歳で母を亡くした。

その後、アル中の父に捨てられた少女は

弟を亡くし天涯孤独となり、統合失調症を患う。

14歳になり、彼女は盲学校に入学した。

何度もつらい目の手術をし、少し目が見えるようになった彼女は、

盲学校を首席で卒業。そして、22歳で教師になる。


彼女は知人の紹介で、目も口も耳も不自由な少女の家庭教師になった。

その不自由さの故に裕福な両親に甘やかされて育った少女は、

心が閉ざされていて獣のように暴れて手が付けられない。

彼女は少女を両親から離して、

たった一人で信仰と愛をもって徹底的に厳しく訓育した。


やがて少女は彼女に心を開くようになり、点字で本を読み、

唇の動きを指で触って会話ができるようになる。


自分の知的才能に目覚めた少女は、

ハーバード大学に入学して熱心に学び、

2つの博士号を授与された。


教師はアン・サリバン、

少女はヘレン・ケラー。

二人は生涯、共に行動し、

障害者を含む弱者の社会的平等実現のために戦い、

世界中の人々に生きる勇気と希望を与え、

世の光として大きく輝いた。


日本では、三重苦を克服したヘレン・ケラーが

「奇跡の人」

と言われているが、

アメリカでは、盲目、死別、孤児、心の病、貧乏、

低学歴、障害者差別等の多くの苦難を克服した

アン・サリバンを

「奇跡の人」

と呼んでいる。

アン・サリバンあってのヘレン・ケラーであるからである。


二人とも、

「キリストを信じるなら、

どんな苦難をも乗り越えて生き、

栄光の道を歩むことができる」

というすばらしい証人である。


2 「重荷」を軽くするには

聖書は、神を信じる者には

「苦難は軽い」

から耐えることができると言う。

そして、苦難を耐える人によって

「重い栄光」

がもたらされると言う。


弁護士として様々な問題に苦しんでいる方々を助けていると、

それが大きな重荷となってくる。

弁護士には守秘義務があるから、だれにも相談できず

一人で問題を抱え込んでしまうことが多い。

すでにこじれている問題がさらにこじれて、

どんどん追いつめられてしまうこともある。


抱えている問題の重圧から心の病に陥る弁護士が増えている。

弁護士会としてもこの事態を無視することができず、

弁護士のために専任の心のカウンセラーを置くようになってきた。


しかし、聖書には、だれでも重荷を軽くすることができる秘訣が書かれている。

「重荷を背負って苦労している人は、わたしのところに来なさい。わたしが休ませてあげよう」

とイエスは語っている。

柔和で謙遜なイエス・キリストから生き方を学んでいると元気になって、

「重い荷物」を「軽い荷物」

として背負える力が湧いてくる。

(マタイ11:28)


言い換えると、

キリストが私の重い荷物を背負い、

代わりに軽い荷物を私に背負わせてくださり、

私と一緒に歩んでくださる。


自分では

「重い重い」

と苦しみながら独りで重荷を負っているつもりが、

イエスが重荷を背負ってくださっているから

「これは重くないんだ!実は軽い荷物なんだ!」

と信じると、

本当に軽くなるから不思議である。


だから私は、どんな難問を抱えても、

「重い重い」

と思い煩わないで、

「軽い軽い」

と自分に言い聞かせている。

イエス・キリストという最高のカウンセラー・助け主にゆだねていくと、

神の力が内側から湧いてきて、難問を軽く背負うことができるようになる。


神を信じる者にとっては、本当はどんな苦難も、

一時的なものであり、かつ軽いのである。

そして、一時の軽い苦難を生き抜くことによって、

永遠の重い栄光がもたらされるのである。


「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、

測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです」            

 (第2コリント4:17)
              


  


Posted by アブラハムささき at 16:33Comments(12)

2019年09月16日

ドングリをどう見るか




「一個のドングリ」

を見て、あなたは何を思いますか?


「どんぐりころころ」

の童謡を、懐かしく思い出す。

「どんぐりの背比べ」

のことわざから、

「みんな大して変わらないのに、愚かな競争をしている」

と考える。

「ドングリなんか渋くて食べられない」

「いや、韓国料理によく使われているおいしい食材だ」

「ドングリはリスや野ネズミの大切な食料だ」


たった一個のドングリですが、その見方は人によってさまざまです。

「肉の目」

で見ているようでも、実は

「心の目」

で見ているのです。


そうすると、あなたが今抱えている一つの問題についても、

いろいろな見方があるわけです。

「大変なことになってしまった。命取りになるかもしれない!」

「なんだ、つまらない問題だ」

「すばらしいチャンスだ。この問題を通してきっといい事が起きるぞ!」~

大切なことは、その問題をどのように見るかは、あなた次第だということです。


「至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり」

「志を立ててもって万事の源となす」

「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。

生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」

(松陰語録)


「至誠」

(誠意を尽くす)

を生涯のモットーとして、幕末の時代を生きた吉田松陰。

黒船に密航しようとした松陰は、逮捕、入獄の憂き目に遭いました。

暗くじめじめとした牢内は、暖炉もなく、

囚人たちは皆、絶望して自暴自棄になっていました。

松陰だけは、実兄が差し入れてくれた本を毎日2冊、

合計6百冊余りを読破し、喜々としていたそうです。


「投獄」

という一つの状況も、

「絶望」

と見ることができるし、逆に、

「希望」

と見ることもできるのです。

読書により研さんを積んで獄を出た松陰は、生家に幽閉されました。

そして、叔父の経営していた松下村塾を引き継ぎました。

入塾を希望する者は、だれも拒みませんでした。

商人、足軽、武士、農民の差別もせず、子どもから大人まで年齢も問いませんでした。


松陰の教育方針はただ一つ。

「人の長所を見抜いて、それを伸ばすこと」

どんな人にも愛情と誠意をもって接しました。

相手を心から信頼し切って、欠点や失敗を責めない。

常にその動静に目を配って長所を見いだし、

それを自覚させて自信を持たせてしまう。

それを実行した人が吉田松陰です。


松陰が門弟の指導に当たったのは、

再び投獄され首をはねられるまでの、

わずか2年間でした。

にもかかわらず、その門下生からは

幕末、維新で活躍した多くの志士やトップリーダーたちが輩出しています。


高杉晋作、久坂玄瑞、桂小五郎(木戸孝允)、

伊藤博文、井上馨、山県有朋、

品川弥二郎、山田顕義、野村靖、吉田稔麿、

入江九一、前原一誠などです。

坂本龍馬も久坂らの影響を大きく受けています。


長州藩の小さな私塾から、

ごく短期間にこれほどの逸材が輩出したことは、

実に驚くべきことではないでしょうか。

「欧米列強の植民地支配から日本を守り、自主独立の国家をつくらなければならない」

藩という小さな枠を超えて、松陰は大きな理想を抱いていました。

名もない下級武士や商人たちの将来の可能性を見抜いた松陰は、

彼らの心に理想を植え付けました。

愛情と誠意をもってそれを育てたのです。


それでは、神は何を見ておられるのか?

これが一番大切です。


私たちは知らないうちに、世間の常識にとらわれた見方をしています。

新聞やテレビが報道することを、うのみにしがちです。

あまりにも情報が多すぎて、自分で考える余裕がありません。

自分で考えても、堂々巡りで、しっかりした理想を持てないことが多いのではないでしょうか。


万物の創造主なる神を信じる者は、

神の見方で物事を見る必要があります。

「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、

わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」

(イザヤ書55・9)


「たった一本のトマトの木に、一万数千個のトマトが実る」

筑波の科学万博でその実物が展示されました。

その原点は、一つのトマトの、たった一個の小さな種です。


そうすると、

「一個のドングリ」

を見て、あなたは

大きな「カシの木」

を想像することができるのではないでしょうか。

そうです、あの大きなたくましいカシの木は、

たった一個のドングリから生え育つのです。


それでは、

「一個のドングリ」

に天の父なる神はどんな可能性を見ておられるのでしょうか。

生い茂る「カシの林」

を見てはおられないでしょうか。

いや、うっそうと茂る、「カシの森」

を見てはおられないでしょうか。

全能の神は、

たった「一個のドングリ」にも

無限の可能性を見ておられるのです。


ましてや愛の神は、あなたの中に

「無限の可能性」

を見てはおられないでしょうか。


そうです、あなたは無限の可能性を持っているのです。

そうだとすると、あなたは他の人の中にも無限の可能性を見るべきではないでしょうか。

あの幕末のように、今、いかなる混乱と悲観に世の中が支配されていようとも、

日本と世界を「新しく変革する可能性」は、

あなたの中に隠されています。

同様に、日本と世界を新しく変革する可能性は、

あなたの周りの人の中にも隠されているのです。

                   
  


Posted by アブラハムささき at 13:59Comments(9)

2019年09月16日

幸福の一手



「ひふみん」こと

「加藤一二三棋士」の

「幸福の一手」

(毎日新聞出版)を読んだ。


「神武以来の天才」

と言われた加藤さん。

「将棋とは、最善手を指し続ければ勝てる世界」

という真理に、小学4年生で目覚める。


しかし、どんな棋士も最善手ばかりを指し続けることはできない。

棋士としての加藤さんの人生は、成功ばかりではなく、

たくさん戦った分、たくさんの負けも体験する。

何事にも確信がもてない、

「一寸先は闇」

という不安にさいなまれた時が続いた。


そんな時に加藤さんはイエス・キリストを信じて洗礼を受けた。

勝ちにこだわり、将棋盤の上ではいつも攻めの姿勢を崩さない。

そんな加藤さんが、人間の弱さを認めて、

自分以外の大きな存在に身をゆだねた瞬間だった。


「何度失敗しても、もう一度立ち上がればいいんです。

私の将棋には神様の力がこもっています。

もちろん、一生けん命に最善手を考える私の努力も大切です。

ただ、人間の私にできることには、限界がある。

人知を超えた真理の世界に到達し、最善手を見つけるには、

神様の助けが必要なのです」

神を信じてひたすら勝負の世界を歩んできた加藤さんの一言一言には大きな重みがある。


私も弁護士という「戦いの世界」に生きてきて、

自分の限界に達したとき、キリストを信じて救われた。

その後の人生は加藤さんの生き方と非常に似通っている。


伸るか反るかという重要な局面の一手を打つのに、加藤さんは7時間も考えることがある。

6時間考えたところで、

「もうこれ以上考えても無駄だ」

と諦めて、納得のいかない一手を打つと、

必ず後悔することになる。


粘りに粘って7時間考え抜いたら、突然、最善手を思い付く。

そこで最善手を打つことができたなら、

どんなに残りの持ち時間が少なくても、

早打ちを連続して勝つことができる。


ある時、大勢の関係者を巻き込んだ複雑な法律問題の事件を引き受けた。

関係者たちは問題の解決を焦るあまり、

「急げ、急げ」

とプレッシャーをかけてくる。

同時に次々と解決の妥協案を提示してくる。

「先生、早くしてください!もう時間がありません。

関係者が怒こって私を責めてきます。

私はもうこの妥協案で結構ですから、OKを出してください!」


「お気持ちはわかりますが、今が一番重要な時です。

ここで間違った決定をしたら、後日、大変なことになりますよ!」


「でも、私はもうどうでもいいんです。

じゃあどうしたらよいのか教えてくださいよ」


「どうしてよいのかまだ確信が持てないから、いろいろ検討しているのです。

新しい法律分野の問題ですから、その分野に精通している専門家に聞いて

私の意見が正しいかどうかを再確認しなくてはなりません」


依頼者と押し問答が毎日続いた。

「弁護士は一体何やってんるんだ。対応が遅すぎる。

事態はどんどん悪くなっているじゃないか」

と、関係者たちも私を責めてきた。

しかし、私としては将来の結果に責任があるので、

自分で納得するまではゴーサインを出すわけにはかない。

日にちはどんどん過ぎていく。


ついに、もうこれ以上引き延ばせないという日が来てしまった。

その日は、

「今日中にこの分野に精通している専門家と出会うことができますように!」

と朝早くから祈り、

藁をも掴む思いでインターネットを通して専門家を探した。


ある専門家のホームページが目に入った。

「この人だ!」

と直感した。

すぐにその方の事務所を訪問し、問題を説明して意見を聞くと、私とまったく同意見であった。

こうして、その問題は一挙に正しい解決を見ることになった。

                        


Posted by アブラハムささき at 13:23Comments(3)

2019年09月16日

敬天愛人

「敬天愛人」


 「待合場所は上野公園の西郷さんの銅像にしましょう」

私は東京台東区浅草で生まれ育ち、

学生時代までそこを離れたことはなかった。

地方から訪ねてくる人があると、

いつも台東区上野駅近くにある西郷さんの銅像を待合場所にしていた。

でも、日本史にあまり興味がなかった私は、西郷さんにもまったく関心がなく、

幕末の維新の志士の一人だというくらいの認識しかなかった。


 10年ほど前に鹿児島市で行われたカトリック・プロテスタント合同伝道集会に講師として招かれた時に、

主催者の方から、

「実は、西郷隆盛はクリスチャンだったのです」

と言われてびっくりした。

それがきっかけで、

「西郷隆盛とはどんな人物だったのか?

キリスト教禁制時代に、どうして彼はクリスチャンになったのか?」

等に強い関心が湧いた。


そして、西郷隆盛について調べていくうちに、

わずか20数年間の「維新」という出来事が、

日本の歴史において革命的な意義を持っていたことに目が覚めた。


内村鑑三はその著作「代表的日本人」の中で、

西郷隆盛を第一人者として紹介している。


「1868年の日本の維新革命は西郷の革命であったと言っていいのではないか」

とまで書いている。

「数ある維新の志士のなかで、

維新の運動を始める原動力である天の法にもとづき運動の方向を定める精神を持っていたのは

西郷隆盛だけであった」

と言うのである。


その精神とは、

西郷隆盛が座右の銘にしていた

「敬天愛人」

である。


聖書を要約すると、

「心を尽くして天の父を敬い、隣人を自分のように愛する」

という「敬天愛人」の一語に尽きる。

これはモーセの十戒の要約でもあり、

キリストの言葉の集約でもある(マタイ22:37~39)。


「敬天愛人」

を西郷は次のように解説している。

「道というのはこの天地のおのずからなるものであり、

人はこれにのっとって行うべきものであるから、

何よりもまず、天を敬うことを目的とすべきである。

天は他人も自分も平等に愛したもうから、

自分を愛する心をもって人を愛することが肝要である」

(西郷南洲顕彰会発行・南洲翁遺訓)


なんと、西郷は聖書を愛読してその精神を実践したばかりでなく、

民衆に聖書を教えていたと言われる。

日本最初のプロテスタント教会である横浜海岸教会で

秘密裏に洗礼を受けていたという証言もある。


 明治維新の最高のクライマックスは、

1868年(慶応4年)3月15日の「江戸城無血開城」である。

これは官軍による江戸総攻撃の前日と前々日に行われた

官軍代表・西郷隆盛と旧幕府側代表・勝海舟との交渉において、

西郷の「攻撃取り止め最終決断」により実現したものであった。

もし二人の交渉が決裂していたら、

江戸全体が火の海となり、

一般民衆を含む数えきれないほどの死傷者が出たに違いない。


 すでにキリスト教の大きな影響を受けていた勝海舟は、

咸臨丸でアメリカに渡った時には、

オランダ語の讃美歌を日本語に翻訳し、

また、しばしばキリスト教会の礼拝に出席していた。

勝は、後に、アメリカ人宣教師一家を海舟邸に同居させるなど、

クリスチャンを特別に優遇し、晩年にはキリストを信じる信仰告白をしている。


 西郷隆盛と勝海舟の二人が維新革命の大立役者であったことは、

世界の歴史を支配しておられる天の父が、

日本の歴史に大きく介入してくださっていたしるしである。


そして、維新の志士たちの多くがキリスト教の影響を強く受けていたことを考えると、

明治維新こそは、徳川300年のキリシタン迫害を乗り越えた、

聖霊の働きによる日本最大のリバイバルの一つだったのではないだろうか。

                        



 


 


 

  


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2019年09月16日

最後の5分

「最後の5分」

1 死刑執行直前の5分間

1849年12月、ロシアの犯罪者収容所に、

反体制思想犯として死刑判決を受けた28才の青年が収容されていた。

死刑執行の直前、処刑場に引き出された彼は死刑執行官からこう言い渡された。

「お前の最後に、5分だけ時間を与える!」

ついにこの世と決別する瞬間が来た。

「ああ、私は5分後にこの世から消え去るんだ。

この5分でいったい何ができるだろうか?」

「愛する家族よ、友よ、先にあの世に行くことを赦して下さい。

私のために悲しまないで下さい、、、」

まず、家族と知人たちへの別れの挨拶の祈りに捧げた。

「2分経過!」

その日まで生かしてくださった神に感謝し、他の死刑囚たちへの別れの挨拶を祈った。

「残り1分!」

「ああ、もう一度人生をやり直すことができたら、、、」、

「生きたい!生きたいんだ!もう少しだ!あと少しだけでも!どうか、わが神よ、、、」

彼は後悔の涙とともに神に嘆願した。

「死刑準備開始!」

「ガチャッ」

銃に弾丸を装填する音が彼の心臓を突き抜けた。

まさに、その時だった。

「止めろ!止めろ!その死刑は中止だ!」

政府の急使が大声を張り上げて処刑場に駆け付けた。

まさに銃殺の直前、皇帝ニコライ一世の特赦により死刑は中止され、4年間のシベリア流刑に減刑された。

極寒の地での過酷な強制労働の中で、神に与えられた時間の重要性を悟った彼は、

「人生は5分の連続だ!」

とばかりに創作活動に没頭した。

流刑を終え、さらに4年間の兵役を除隊後、1881年にこの世を去るまで、

キリスト教人道主義者として、数々の不朽の名作を書き残した。

「罪と罰」 「カラマーゾフの兄弟」 「未成年」 「悪霊」 「白痴」、、、

死刑執行を直前で免れた彼こそは、

後にロシアの大文豪になった 「ドストエフスキー」 であった。


2 提出期限直前の5分間

 「運転手さん、急いでください!どうしても零時5分前までに東京地裁に着

かなければならないんです」

 夜の11時40分、渋谷駅近くでタクシーに飛び乗った私は、そう叫んだ。

 「お客さん、それは無理ですよ。15分で霞が関の裁判所に行くなんて!」

 「それでもなんとかお願いします!」

 「う~ん、とにかくベストは尽くしてみますが、保証はできませんよ」

 ある刑事事件の控訴趣意書の提出期限だった。

一審で有罪判決を受けた被告人が無罪を主張して、私に弁護を依頼してきた。

裁判記録を読み、現場を何度も検証し、証拠を集めているうちにあっという間に

日にちが過ぎて、ついに、期限当日になってしまった。

提出時間の午前零時が一秒でも過ぎたら書類は受理されず、弁護側の主張も

証拠もまったくないまま裁判が終わってしまう。弁護士としての大失態である。

 「お客さん、着きましたよ!ちょうど零時5分前です。これは奇跡ですよ!」

代金を払うと、私は暗闇の裁判所の裏庭を必死に走った。

「遅れたらどうしよう!主よ、助けて下さい!」

心臓が張り裂けそうだった。

ようやくたどり着いてドアを開けると宿直の若い職員が居眠りをしている。

「お願いします、控訴趣意書を提出しに来ました!今日が期限なんです」

びっくりして目をさました職員があわてて時計を見る。

「ああ、ぎりぎりですが間に合いますよ。あと数秒遅れたらアウトでしたよ!」

といって書類を受理してくれた。

最後の5分の重要性、いや、最後の数秒の重要性に目覚めた瞬間だった。絶対

ダメだと思ったのに奇跡的に助かった。

その時ほど、神の恵みのタイミングに感謝したことはなかった。

「5分あれば何とかなる!」「いや、最後の数秒が肝心だ!」

それ以後、神から与えられた貴重な時間を感謝し、「最後の5分」、「最後の

数秒」を大切にしながら生活するようになった。


 
  


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2018年07月24日

「地球はとても美しかった」



1 地球はとても美しい!


「宇宙飛行をして一番感動したことは何ですか?」

最近、 土井隆雄元宇宙飛行士(現京都大学特任教授)と会食した時、 土井さんにこう聞いてみた。

土井さんは、 日本人として初めて2度にわたり宇宙を飛行した。

「地球がとても美しかったことです! そこにはすべての生命体が生きています」

と即座に答えてくれた。

「スペースシャトルの飛行中、 毎日毎日、 窓から美しい地球を眺め続けて飽きることがありませんでした」

そう言う土井さんの目は輝いていた。


私も出張等で飛行機に乗る時は、

見晴らしの良い窓際の席を取ることにしている。

眼下でどんどん変化する地表の景色に飽きずに見とれている。

不思議に心が躍動してくる。

人間が作った地球儀には命はないが、

神の造った地球には命がある。


「宇宙を見渡したが、どこにも神はいなかった」

世界で初めて有人衛星ボストークに乗船して生還したソ連のユーリイ・ガガーリンは、

こう言い、

「空は非常に暗かった。  一方、 地球は青みがかっていた」

と報告した。

徹底した無神論・唯物論の社会主義者として、 ガガーリンは、 

肉眼で見える物体しか見ることができず、 命を見ることもできず、

まして創造主なる神を見ることができなかったのは残念である。


だが、 宇宙を遊泳して帰還した多くのアメリカの宇宙飛行士は、

地球の美しさに驚嘆して、 神の存在に強烈に心を打たれたと言う。

中には、 牧師や宣教師になって創造主なる神の福音を伝えている者たちもいる。


神は美しい地球を命ある被造物で覆われた。

被造物もそれぞれが美しく輝いている。

イエスは、 「空の鳥を見よ」 「野の百合を見よ」 と言われた。

今日咲いて明日には枯れる百合の花でさえも、

栄華を極めて着飾ったソロモンの豪華な衣装よりも美しいと言われた。

神の造った一輪の百合には命があるが、

人間の作った衣装には命がないからである。


2 人間はとてもすばらしい!


「人間はとてもすばらしい。

人間はもっともっとすばらしいことができるはずだ」

と、 土井さんは宇宙飛行のもう一つの感動を述べている。


神が造った被造物の中で最も美しいのは人間である。

なぜなら人間は神にそっくりに造られているからである。

そして神ご自身の命が吹き込まれているからである。

(創世記 1:26~28、2:7)


ある時、 私の通っている教会にアメリカの大学のグリークラブが訪問した。

聖霊に満たされ喜びにあふれて神を賛美している若い学生たちの姿を見ているうちに、

感動のあまり涙が止めどもなく流れてきた。

ひとり一人が神のように神々しく輝いていた。

彼らが卒業して社会に出たら、  どのようなすばらしい働きをするだろうかと、 将来への期待に圧倒された。


私はかつて、 宇宙(開発)法の専門家であった。

NASDA(現JAXA)の国際問題の法律顧問として、

種子島の宇宙センターやワシントンDCのNASA本部、

ヒューストンのシャトル打上げステーション等を訪れて、 現場を視察し、

NASAとスペースシャトル利用契約の交渉等をした。


ところが、 今は、 刑事事件で勾留中の被告人を接見したり、

相続争いの調停をしたり、 離婚裁判の代理人をしたりすることが多い。

そこには人間の罪と罰と赦しという聖書の世界がもろに展開している。

そして、 問題の中でもまれながら必死に生きようとする生命力を持つ

人間の本来のすばらしさが見えてきた。


・・・ 「はじめに神は天と地とを創造された。。。
 
    神は自分のかたちに人を創造された。

    神が造ったすべてのものを見られたところ、

    それは、 はなはだ良かった」

     (創世記 1:1~31)

             


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2017年07月22日

言葉の力

「バカヤロー」 v s 「ガンバロー」

1 「バカヤロー」 の破壊力

たった一つの失言で辞職に追い込まれる政治家が後を絶たない。

かつて 「バカヤロー」 の一言で衆議院が解散したことがある。

いわゆる 「バカヤロー解散」 である。


時の自由党政権の吉田茂首相が国会の質疑応答で

社会党右派の西村栄一議員の侮辱的な追及に対する答弁の最中、

自分の席につきつつ非常に小さな声で 「バカヤロー」 とつぶやいたのがマイクに拾われてしまった。

それを聞いた西村議員が大げさにとがめたのがきっかけで、

衆議院解散にまで発展した。

選挙の結果は、 自由党は大敗して少数与党に転落し、

これを機に吉田元首相の影響力は急速に衰えて後の政界引退につながった。


熱く炊いたご飯を別々の瓶に入れて、

一つのビンには 「ありがとう」 と書いた紙を貼り、

別のビンには 「バカヤロー」 と書いた紙を貼り、

しばらくして調べて見ると、

「ありがとう」 と書いたビンに入れたご飯は長持ちして麹のような香ばしいままであるが、

「バカヤロー」 と書いたビンに入れたご飯はすぐに腐って異臭を放つという事実は、

世界各国で実験されて話題になっている。 


3  「ガンバロー」 の建設力 

日本は敗戦で完膚なきまでに破壊された。

その後も、震災等で何度も大きな被害を受けてきた。

しかし、その都度そこから見事に立ち直り復興してきた原動力は何だったのだろうか。


それは、 「ガンバロー」 と言って、皆が励まし合ったからではないかと思う。

「ガンバロー」 という言葉には、 人を強くする不思議な力がある。

目標達成 (勝利) のために自分の力を存分に発揮する力、

困難に堪え抜いて諦めずに抵抗し続ける力である。


3:11 の東日本大震災の直後、

日本中に 「ガンバロー、ニッポン!」 という言葉がわき起こり、

外国から 「ガンバレ、 ジャパン!」 という愛の声援がたくさん寄せられた。

アエラの記者等は、 「日本はもうだめだ! 神はいない! 仏はいない!」 と絶叫してこれを大げさな記事にしたが、

ついに 「ガンバロー!」 の掛け声が打ち勝った。


でも、 最近では、 「ガンバロー」 「ガンバレ」 と言って励ますより、

「お疲れさま」 「ご苦労さま」 と言って慰める言葉がはやっている。

確かに、 「ガンバロー」 と言われて頑張りすぎて、

過労で倒れ、 バーンアウトしてしまうこともある。

その主な原因は、 「自分の力」 だけで頑張るからではないかと思う。

けれども、 「お疲れさま」 「ご苦労さま」 と繰り返し言われると、

疲れてもいないのに疲労感を覚え、

元気なのにガックリして脱力感にとらわれてしまうのは

私だけであろうか。


聖書において、 天の父はいつも 「ガンバレ!」 「ガンバロー!」 と言って私たちを励ましている。

「強くあれ、 雄々しくあれ、、、」

「キリストの偉大な力によって強くなりなさい」

「悪魔に立ち向かいなさい」

「男らしく強くあってほしい」

「勇気を出しなさい」

「恐れるな、 おののくな」

「勇敢に戦って勝利せよ」、、、


ただし、 神は決して自分の力だけでガンバレとは言っていない。

「わたしが共にいるから」

「わたしの力によって」

「わたしの導きに従って」

戦い抜きなさいと言って励ましてくださるのである。


「主を待ち望む者は、

新たなる力を受けて、

鷲のように翼を張って昇ることができる。

走り続けても疲れることなく、

歩き続けても弱ることはない」

(イザヤ40:31)


3 言葉の力

言葉には力がある。

言ったとおりに実現させる力がある。

言葉はその人の内心の表現でもある。

人の内心が言葉を通して外の世界に実現していく。

しかし、 内心では思っていなくても、 言葉にすれば言ったとおりになっていくのも事実である。

だから、 心にもないお世辞でも人は喜んで動くし、 冗談でも人を傷付けてしまうことがある。


神はこの世界を言葉によって創造した。

神の子である私たちも言葉によって自分にかかわる世界を創造しているのである。


・・・ 「兄弟に向かって馬鹿者と言う者は地獄の火に投げ込まれるであろう」 (マタイ5:22)

・・・ 「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なときに

   人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい」 (エペソ4:29)

                    


  


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2016年10月09日

「祈りのちから」


依頼者との午後の打ち合わせが急にキャンセルになった。

ついでにひと休みしようと、

事務所の近くのビルの上層階にエスカレーターで上っていったところ、

目の前に映画館があった。

なんとそこで 「祈りのちから」 を上映していたので、

そのまま入場して観てしまった。


「祈りのちから」 はアメリカの一教会が製作した映画なのに

全米ナンバーワンのヒットになったと聞いて、

ぜひ観たいと思っていたがどこで上映しているか知らなかった。

後で知ったことには、

関東地区では東京の渋谷駅前のその映画館でしか上映していなかったから、

まさに神の導きであった。


「家庭を崩壊させようとする人間の罪とそれに結託するサタンに対し、

密室で激しく祈り, イエスのみ名によって断固として戦いなさい!」

高齢の未亡人から強く勧められた離婚寸前のクリスチャンの妻が、

自宅の衣装室で必死に祈って夫婦の崩壊を回避し、

理想の家庭を回復したという単純なストーリーだった。


自ら悔い改めた妻の祈りに、 神が誠実に応えて、

いろいろな状況とさまざまな人びとを動かし、

夫を涙の悔い改めに導き、

子どもを含めた家族の愛と喜びが回復していく様子を実にリアルに描いていた。

聖句もたくさん引用されていた。


非常に感動して、 終わるとすぐに、 何人かの知人に携帯メールで観賞を勧めた。

数日後その全員から感動したという報告を受けた。

中には、 別居をやめる決断をした人や、 夫婦喧嘩をしないことにした人もいた。

ある人は自宅の衣装室で, 別の人は押入で祈り始めたという。

その人たちが、それぞれの関係者に観賞を勧めたようだ。


この映画の製作と上映のために多くのクリスチャンの祈りが積まれてきたに違いない。

観た人を感動させるだけでなく、 その人に行動を起こさせる力がある。

祈りに応えて神が働いてくださっている証拠である。



このような完全なキリスト教映画がなぜ日本で上映されたのか不思議に思っていたが、

配給会社のソニーピクチャーズの社長さんがクリスチャンで、

採算を度外視して上映に踏み切ったと聞いて納得した。

彼もこの映画を観て感動し、 どうしても日本人に観て欲しいという強い願いを持ったのだろう。


この映画の原題は、 「War Room」 すなわち 「戦いの部屋」 である。


この映画の第一の目的は、 「神は密室の祈りを聞いてくださる」 ことを証明することである。

「祈りを聞いてくださる」 とは、

「祈りに応えて、 本人、 他の人、 そして状況に対して、 神は現実に働いてくださる」

ということである。

第二の目的は、 「祈りは戦いである」 ことを証言することである。

ある目的を実現するために祈ることは、

祈祷文を朗読するような形式的な祈りや心の平安を得るための気休めの祈りではなく、

目的の実現を阻もうとする自分を含めた人間の罪とそそのかすサタンとの激しい霊的な戦争である。


私もこの映画を観て自分の祈りが変わってきた。

深夜、 誰もいない事務所の会議室で、 一人で声を出して祈る習慣が身についてきた。


最近、親しくしている日本人の青年から、

「アメリカで弁護士の試験を受けるので、ぜひ祈ってください」

と頼まれた。

時差のために、 現地での午前の試験が日本の夜10時半から始まり、 午後の試験が翌朝4時半から始まった。

午前の試験のためには聖霊に満たされて良く祈ったが、 午後の試験のためには途中から疲れて眠ってしまった。

「午前の試験は非常にうまくいきましたが、 午後の試験は途中から疲れて試験問題の意味がわからなくなってしまいました」

と本人から報告があった。

「祈りのちから」 は地球の裏側にいる人に対しても即時に直接に働くことを体験した。


・・・ 「ヨシュアはモーセ彼に言ったようにし、

アマレクと戦った。

モーセとアロンおよびホルは丘の頂に登った。

モーセが手を上げているとイスラ エルは勝ち、

手を下げるとアマレクが勝った」

(出エジプト 17 : 10, 11)




  


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2016年07月14日

「悩まない力」



「悩む力」

(元東大教授・姜尚中氏著、集英社刊)

が100万部を越えるベストセラーになっている。


「人間には悩む力がある」

「自分は今まで悩みに悩み抜いてきた」

「自分でこれだと確信できるものが得られるまで悩みつづける。

あるいは、 それしか方法はないということを信じる」

「それが 『信じる者は救われる』 という意味ではないか」


しかし、 姜氏のようにもともと思考力が秀れた少数の人たちを除いて、

ふつうの人は悩みに悩んだら、 精神や身体にだけでなく、

人間関係にも大きな支障をきたしてしまうのではないだろうか。

かえって、 間違った判断をし, 間違った行動に走ってしまうのではないだろうか。


問題がこじれて相手から訴えられた方の弁護を頼まれた。

生まれて初めて被告にされたその人は、

悩みに悩んで夜も眠れなくなってしまった。

やがて不眠症からうつ病になり、 いくら薬を飲んでも病状はますます悪化し、

昼夜を問わず家の中を歩き回って何かつぶやいている。


「あなたがいくら悩んでも解決するわけではありませんよ。

どうか裁判のことは弁護士にまかせて、 気を楽にしてください。

ご家族と温泉にでも行かれたらどうですか?」

と言っても、 まったく聞く耳を持たなかった。


「穏やかで明るく生きてきた主人が、

ひどく変わってしまったことが信じられません。

このままでは家庭が崩壊します。

何とかして助けてください!」


奥さんから悲痛な懇願を受け、

とりあえず、 新約聖書の文庫本を差し上げた。

「これをご主人に読んでもらってください。

問題について悩むのをやめて、

神にすべてをゆだねたら楽になりますよ」

その後、 家族の強い勧めにより、 彼は精神病院に入院することを承諾した。


「おかげさまで、 すっかり元気になりました。

あんなに悩んできた大問題が、 心が正常になってみると、

なんとかなると思えるようになりました!」

3か月後に退院した彼からうれしい報告を受けた。

入院中にむさぼるように聖書を読み、

すべてを神にゆだねることにしたら、

悩みが消えてしまったそうだ。

自信を回復し健全な思いで問題に取り組んでいく力を得たのだ。

「一年ぶりで主人に笑顔が戻りました!」

奥さんがとても喜んでいた。


子どものように天の父を信頼して救いを求めることが、

悩みを解消し、 あらゆる問題を解決する秘訣である。


悩みに悩んで問題を乗り越えていく。

必ずしも悪いことではないが、

人間の知性による解決には究極の救いはない。

せいぜい、 限られた知性と知識に基づく、

多分に間違いを含む歴史観、 政治観、 人生経験等から導き出された、

その場限りの処世術にすぎない。


放蕩息子が人生に失敗して悩んだ末に、

父の元に帰って救われたように、

私たちも悩みを通して父なる神の懐にたどり着いて初めて、

永遠に至る本当の救いを得るのである。


この悩みに満ちた世にあって、

「悩まない力」

は神 (の言葉) からくる。

天の父は子どもたちのことをいつも心配して、

真剣に思い悩んでくださっているからである。


私たちを究極的に救うために、

御子イエス・キリストを十字架に磔けにした父なる神の愛は、

あらゆる苦悩の極致である。


・・・  「何事も思い煩らってはならない。 ただ、 事ごとに、、、

あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい」

(ピリピ4:6)

・・・  「あなたがたの思い煩いをいっさい神にゆだねなさい。

神があなたがたのことを心配してくださるからです」

(第一ペテロ5:7)

・・・ 「彼らのすべての悩みのとき、 主も悩まれて、、、 彼らを救い、、、」 

(イザヤ63:9)

                          
  


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2016年05月15日

 「真理とは何か?」

             

「真理はあなたがたを自由にする」

(ヨハネ 8:32)


「真理とは何か?」 

ローマ総督ポンテオ・ピラトは、 イエスにこう尋ねた。

「真実は一体どうなんだ?」 

本当のことを知りたい。

これは人間の本能的な欲求である。


ある時、 外国の刑事裁判にかけられた日本人被告人の支援をしたことがある。

その日本人被告人は無罪を主張していた。

現地の弁護士団がその裁判を有利に運ぶために、私は日本での証拠集めを頼まれた。

ところが調査しているうちに、

被告人が有罪だと思われる決定的証拠が見つかってしまった。

拘留中の被告人に真偽を問い合わせたところ、

彼は断固としてその証拠の信憑性を否定して無罪を主張しつづけた。

しかし、彼が有罪であることの私の確信は最後まで揺るがなかった。


現地の弁護士団は、 99%被告人は無罪だとマスコミに発表した。 

でも、現地の最高裁判所まで争ったが、 被告人の有罪が確定した。


けれども、 本人が無罪を主張している限り、 誰にも本当のことはわからない。

マスコミや裁判所からこぞって百パーセント有罪だとされた人たちの冤罪事件は後を断たない。

「神のみぞ知る」 と言うが、 本当のことは神にしかわからない。

たとえ、 「自分がやりました」 と被告人が自白しても、 それが真実とも限らない。

 
「この人には何の罪も認められない」 

と言いながら、 ピラトはイエスをユダヤ人たちに引き渡してしまった。

そして、 ユダヤ人たちは無罪であることを知りつつ、

イエスを断罪して十字架に付けて殺してしまった。

人類史上最大の冤罪事件である。

なぜ全知全能の神はすべてを知りつつこれを見過ごされたのか?

そこには人類救済という、人知を越えた父なる神の深いご意志があったのだ。


「真理はあなたがたを自由にする」

無罪という事実にもかかわらず有罪にされてしまうことがあるのはなぜか。


そもそも 「真理とは何か?」 という問いが間違っている。

本当の真理とは、 真実か嘘かという単なる事実ではない。

本当の真理とは、 真偽を含めたあらゆる事実を越えて働いている父なる神のご意志である。

父なる神のご意志は御子・イエスを通して働いている。

ゆえに、 真理とは、 イエスご自身のことである。

だから、 正しい問いは、 「真理とはだれか?」 なのである。


イエスを信じイエスに結ばれることによって初めて、

「愛の神は人知を越えて最高・最善をなしておられる」

と確信することができる。


こうして私たちは、 

あらゆる真偽に関する疑惑や束縛や拘束から解放されて、 

本当に自由にされるのである。


・・・ 「わたしは、 道であり、 真理であり、 命である」

    (ヨハネ 14:6)


                         
  


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2016年03月18日

「負けてたまるか!」



1994年、

長崎県大村市長在職中に無実の罪で、

220日間の勾留。

起訴され罪状否認のまま有罪判決。


その後の妻の自殺、 次男の急死、 そして襲い来る病 ――

無実の罪を着せられ、 愛するものを失い、 身も心もボロボロになった。

人に後ろ指をさされ、 「もう終わりだ」 とささやかれ、 ときには罵倒された。

「もうダメだ・・・」 と天を仰いだ。


だが、 絶望の淵から不屈の魂で復活、

市長に返り咲いた松本崇 (マツモトタカシ) さんは、

日本一住みたくなるまちづくりに邁進した。

市民の圧倒的支持を得て、 「奇跡の市長」 と呼ばれる。

過疎に悩む長崎県で、 唯一人口が増え続けるまちをつくった。

病を押して車イスで市庁に通う悪戦苦闘の毎日。

「車イス市長」 とも呼ばれた。


松本さんは高校2年生のクリスマスに

イエス・キリストを信じて受洗した。

青年時代は純粋な信仰者だった。

しかし、 政界に入った後は、 信仰から遠ざかっていた。

ところが、 留置場・拘置所の200日間、

むさぼるように聖書を読み、

信仰にもう一度立ち返ることができた。


「たとえ我、 死のかげの谷をあゆむとも、

わざわいを恐れじ。

汝、 我とともにいませばなり」 

(詩篇23篇)


どんなに辛いときも、 この言葉を胸に生きてきた。


(以上、 松本崇著、 「負けてたまるか」、 WAVE出版より要約して引用)

 
松本さんは前市長のときに

旧態依然としていた行政の改革を強力に断行した。

それを恨んだ改革反対派により仕組まれた冤罪事件だった。

だが警察に逮捕されたとたんに、

マスコミはこぞって松本さんを犯罪者として報道した。


今の日本の社会では、

ひとたび犯罪者の烙印を押されてしまったら、

それを覆すのは非常に困難である。

また、 失敗に対しても不寛容であることが多い。

聖書の言葉を借りれば、

「律法主義社会」 である。

「出る杭は打たれる」 ことが当たり前とされている。


いくら善いことをしても、

いったん失敗者となってしまったら、

負け犬として社会から葬られてしまう。

ならば、 危険があることにあえて挑戦するのは馬鹿らしい。

皆が上からの評価や人の目を恐れて戦々恐々としている。

目立たないためには何もしなければよい。

こうして現状に甘んじることになってしまう。


しかしそれでは、 力強く生きる力が失われていくのは当然だ。

活力のない組織は堕落し、 希望を見失った社会は凋落していく。

ビジョンのない国家・民族はやがては滅んでしまう。


だが、 神を信じる者は、 上部の権力や人々の目を気にして、

神のみ心を行うことをためらってはならない。

キリストの証人として、 いつでもどこでも証しをし、

愛をもって善を行う勇気を持たなければならない。

世の光として輝き、 地の塩として役に立たなければならない。


権力の妨害や世間の迫害に遭い、

地位や名誉や富を一時的に失うかもしれないが、

天において大な報いが保証されている。

(マタイ5:11)

世にあっても、 何度でも復活することができる。

(箴言24:16)

天の父なる神がともにいて、 その人を強くしてくださるからである。


「負けてたまるか!」

人間の罪と戦いサタンの攻撃に対抗する 「ど根性」 (闘魂) が、

その人の内から生ける命の水のようにわき起こってくる。 
 

「すべてを失っても、 人は何度でも立ち上がれる!」

この言葉を日本人への遺言のようにして、

2015年9月、 激務の末に病に倒れ、

松本崇さんは市長在職中に天の御国へ凱旋していった。

                    
http://www.vip-club.tv/sasaki/
http://www.brandnewlife.jp/






  


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2016年02月19日

「三つの苦手」


「なくて七癖」 というが、

誰でも三つくらいの苦手があるのではないだろうか。

私にも大の苦手が三つあった。


「第一に英語、 第二に法律、 第三にスピーチ」


① 「日本人なのになぜ苦労して英語を勉強しなくはいけないのか!」

高校二年の時まで、 英語が大嫌いで、 成績はいつも最下位を争った。

「佐々木君、

ほかの科目の成績はそんなに悪くないのに、

英語が特別に悪いねぇ。

これではどこの大学にも入れないよ!」


担任の先生に呼び出されて、 厳しく注意された。
  
英語が入試の必須科目であることに気づいて、

「これは大変だ!」

と大いにあわてた。

もう 「いやだ」 とか 「嫌いだ」 とか言っていられず、

その晩から必死で英語の勉強を始めた。


他の科目をそっちのけにして英語ばかりをがむしゃらに学習した。

次の学期末には、 なんと、 英語の成績がトップになり自分でも驚いた。

おかげでなんとか志望した大学に入ることができた。


② 「法律は砂を噛むような学問だ!」

私にとって法律はまったく興味も関心もなかった。

でも、 ある事情で法学部に入ってしまった。

嫌いで苦手だったので、

法律の授業をほとんどサボって部活に逃げていた。

取得単位が足りず卒業が危ぶまれた。


そんな時に友人に誘われて、

十数人の小さな司法試験受験グループに入った。

試験を受けるつもりはなかったが、

一人でやるよりはやる気が出るのではないかと思った。


そこには 「法律が三度の飯より大好き」 という連中がごろごろいた。

ある夜、 停電でクラブの部屋が真っ暗になった。

私を除く全員が、 相手の顔も見えないのに、

2時間も大声で議論を続けたのにはあきれた。


だが、 仲間の刺激もあって、 砂を噛む思いで

いやいや法律の勉強に挑戦した。

その流れで皆と一緒に司法試験を受験したら、 私も受かってしまった。

おかげで大学卒業後は、 英語を使う国際弁護士になった。


③ 「人前でスピーチするくらいなら、 死んだ方がましだ!」

死ぬほど苦手なスピーチを、

私は長年にわたって懸命に避けてきた。

しかし弁護士になったら、 法廷で弁論しなければならない。

なにもしゃべらなければ裁判に負けてしまう。


そのうちクリスチャンになったので、

大勢の前で証しをしなければならない。

「あなたがたはわたしの証人である」

とイザヤ書に2度もでてくる。

人の前でキリストの証しをしなければ、

天の法廷で証言拒否罪で裁かれてしまう。


やむを得ず、 その都度、 弁論や証しの原稿を書いて、

法廷や集会でそれを棒読みした。

それでも緊張のあまり途中から声が上ずってしまい、

顔が真っ赤になり頭が真っ白になったことも度々あった。

だが、 逃げずに場数を踏んでいった。

おかげで原稿なしでも話せるようになった。


あるとき、 外国の大きなスタジアムで行われた

5万人以上の集会に来賓として招かれた。

予告なく司会者に指名され突然マイクを持たされて、

一瞬心臓が止まる思いだった。

ところが、 意を決して壇上に立つと、

大群集が一つの大きな壁のように見え、

その壁に向かって言いたいことを気軽にしゃべることができた。


私にとっての 「三つの苦手」 が、 なんと、 クリスチャンの国際弁護士として、


① 仕事で英語を使い

② 法廷で法律の弁論し

③ 集会でキリストの証人としてスピーチをして


人生の中で最もよく活用されている。


もしこの 「三つの苦手」 にチャレンジしなかったら、

今の私はない。

すべての苦手 (大きな障害) の中には、

神の恵みと祝福が隠されていることがわかった。


一番大切な 「天の王国」 も暗闇に隠された所に存在している。

(マタイ13:44)


・・・ 「わたしはあなたの前を行き、 山々を平にし、 青銅の扉を打ち破り、

    鉄のかんぬきを折り、 暗闇に置かれた宝、 隠された富をあなたに与える」

    (イザヤ 45:2,3)

                 
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Posted by アブラハムささき at 23:54Comments(20)

2016年02月04日

「人は変わることができる!」



「えっ、 会社を辞めて神学校へ行くんですか。

うーん、 もう一度よく祈って、 考え直した方がいいんじゃないですか?」


かつて私の職場近くのレストランで、

クリスチャンのビジネスマンの昼食会をしていたことがある。

少ない時は2,3人、 多い時で10人くらい集まっていた。

目的は、 職場、 職域でいかにして福音を伝えるかを話し合い、

ともに祈り合うことであった。

参加者は皆、 燃えて輝いていた。


ところがその中で一人だけ暗くくすぶっている青年がいた。

その昼食会で最年少の彼は一流会社に勤めていたが、

たまに参加しても寡黙で存在感の薄い人だった。


「仕事がきつくてとてもいやなんです、

人間関係もうまくいかなくて早く辞めたいです」

と否定的なことしか言わない。

「こんな消極的な社員を首にもしないでよく雇ってくれているなぁ」

会社に同情したくなるようなタイプだった。


その人から

「会社を辞めて神学校に行き、将来は牧師になりたい」

と聞いて、

思わず絶句した。

「この人の説教を毎週日曜日に聞かされる信徒の皆さんが可哀そうだ」

「きっと、 信徒が減っていき、 いつか教会が消滅してしまうのではないか」

と真剣に危惧した。

しかし彼は本当に会社を辞めてしまった。


かなりの年数が経って、 彼のことはすっかり忘れていた。

時々、 キリスト教系新聞などで、

同姓同名の若手牧師が活躍しているというニュースを読んだが、

彼のことはまったく思いださなかった。

なんでも、 非常に積極的な牧師で、

メッセージが強烈で大勢の若者たちが集まっているという。


そのうちにその牧師の顔写真がマスコミに載るようになった。

「えっ、 まさか! あの暗い消極的な青年が! とても信じられない!」

名前と写真が一致して、 まさしく同一人物だとわかった。

彼を見くびっていた当時の自分の高慢さを恥じた。


「三つ子の魂百まで」

と言うように、

「人はいくつになっても変わらない」

というのが、 世の常識である。


「破産した人がまた破産した」

「離婚した人がまた離婚した」

「刑務所から出てきた人がまた刑務所に入った」

そのような事例をたくさん見聞きするにつけ、

「人は変わらないんだなぁ」

とあきらめの気持ちになっていた。

 
「お久しぶりです! 覚えていますか、 少し前に先生の事務所でお会いした者です」

ある集会の休憩時間に明るい笑顔の女性から大きな声で話しかけられた.

でも、その人の記憶がまったくなかった。

「すいません、 毎日大勢の方とお会いしているので、 どなたか思い出ませんが」

と言うと、

「そうでしょう! わからなくても無理ないですよ! 

私ってまったく変わってしまったんです!

自分でも驚いているんです!」


会場の廊下で立ち話しているうちに思い出した。

「えっ、 まさか、 あの時の方ですか!」

数か月前、 その方は夫婦関係のもつれで深刻な問題を抱え、

打ちひしがれて相談にきた。

とても暗く、 悲観的で、 ご主人を悪くしか言わなかった。

「ご主人を変えることはできなくても、 自分を変えることはできますよ。

自分が変わればご主人も変わるかもしれませんよ」

こう言って帰ってもらった。


「うーん、 人は変わることができるんだ!」

「いや、 人は変わらなければいけないんだ!」


よく考えてみると、 私もずいぶん変わってきた。

以前の私は、 消極的、 悲観的、 心配性で

「くよくよ人間」

の典型だった。


でも、 イエスを信じてから変わった。

特に聖霊を受けてからまったく変わってきた。

神に造られた本当の自分に目覚めたからである。


・・・ 「私たちはみな、、、、、、栄光から栄光へと、

   主と同じかたちに姿を変えられて行きます。

   これはまさに、 御霊なる主の働きによるのです」 

(Ⅱコリント3:18)


 

  


Posted by アブラハムささき at 12:25Comments(41)

2016年01月01日

「1%のインスピレーション / 99%のパースピレーション」  


1 インスピレーション

問題を解決するためには、

インスピレーション (ひらめき・アイデア・導き) が非常に大切である。

パースピレーション (汗・努力・がんばり) は、

インスピレーションを実現するための手段にすぎない。


「1%のインスピレーションと99%のパースピレーション」

発明王トーマス・エジソンは成功の秘訣をこう語った。

エジソンは自分のベッドで眠ったことがほとんどなく、

仕事場で断続的に短い仮眠をとることによって、

途切れもせず、 飽きもせずに、

ひとつのテーマに肉体的・精神的エネルギーを集中しつづけた。

だから、 「努力の人」 として賞賛されてきた。

でもこれは真実ではない。


「1%のインスピレーションがなければ、 99%のパースピレーションは無駄である!」

実はエジソンはこう語ったのだ。

(サクセス・マガジン、1982年2月号) 

「ひらめきの人」 としてインスピレーションの重要性を語ったのに、

「努力の人」 としてのみ尊敬されることに、

エジソンは憤慨していた。


聖書によれば、

父なる神はその子どもたちのために、

問題の解決の道をはじめから備えてくださっている。

(Ⅰコリント10章13節) 

だから、 自分の思いでがむしゃらに問題を解決しようとしても、

疲れ果てて、 むなしく終わることが多いのである。


神のことば (聖書) を深く読み、 神によく祈り、

神ご自身から解決のインスピレーションをいただき、

それに向かって努力を惜しまないならば、

問題は必ず解決するはずである。


上からのインスピレーションがあるときは、

内から新しい力が湧いてきて、

いくら働きつづけても疲れることがない.

(イザヤ40章31節)


人の目には 「努力の人」 に見えるが、

本人は寝食を忘れてしまうほど楽しく働いているのである。


「電灯フィラメントは必ず発明できる!」

エジソンは神からのインスピレーションに確信をもって取り組んだ。

成功するまでに一万回の実験を繰り返したと言われる。


この持続する力は、

単なる自分のアイデアを実現しようとするための

努力やがんばりからは決して出てこない。


2 訴訟事件におけるインスピレーションの重要度

ある国際的な訴訟事件で被告側を弁護することになった。

原告側は絶対に勝訴できると思い込み、

複数の法律事務所に依頼して大型弁護団を組み、

莫大な金額の損害賠償と弁護士費用を合わせて請求してきた。


被告側も私を含む数人の弁護士で応戦したが、

法律的にも判例・学説から考えても非常に不利な事件で、

早期に和解し決着するしかなかった。


ところが感情的な問題もあって、

当初から原告側は絶対に和解しない雰囲気だったので、

私は少しでも有利な判決になるようにと、

解決策を真剣に祈り求めた。


祈っているうちに、 法令・判例・学説上は非常に不利でも、

被告側にそうせざるを得なかった事情 (正当な理由) があることに気が付いた。

この正当な理由を証拠づければ、 勝訴できるかも知れない。


裁判の進行とともにさらに祈りつづけているうちに、

そのインスピレーションが、

「きっと勝てる !」

という確信に高まってきた。

すると、 正当な理由を裏付ける証拠が、 面白いように集ってきた。

 
原告側は毎回の裁判期日に弁護団全員を出廷させ、

大勢の原告側関係者を傍聴させた。

原告側が、 この訴訟にいかに真剣に取り組んでいるかというしるしであり、

裁判官に心理的圧力をかけるという意味もあった。


しかし、 私は勝訴の確信があったので、

弁護士費用を節約するためにも、

後半からは弁護士1,2名の出廷に限定した。

 
5年以上もかかったが、

最後には被告側の主張が全面的に認められた。

敗訴側 (原告) が高等裁判所への控訴を

あきらめたほどの完全勝訴だった。


3 ひらめきと努力のウェイト

結果的には、

この裁判に注ぎ込んだ原告側の人的労力と時間と費用は、

すべて無駄になってしまった。

事件の表面的な事実関係を法令・判例・学説に照らし合わせて

「絶対に勝てる!」 と信じ込んだところに、

大きな間違いがあった。

初めが間違っていれば、

いくら努力しても、

その努力は無駄になってしまうことになる。

 
逆に、

すべてをご存知の神からのインスピレーション(ひらめき)があれば、

それに注ぎ込むすべてのパースピレーション (努力) は報われる。


エジソンは、

「1%のインスピレーション」 という言葉で

「見えない霊の世界」 のことを語り、

「99%のパースピレーション」 という言葉で

「見える肉の世界」 のことを語ったのである。


だから、 問題解決の重要度としては、

「99%がインスピレーション (霊の世界)」



「1%がパースピレーション(肉の世界)」

であると言うことができる。


自分の思いで必死にがんばるよりも、

聖霊の力によって楽しく働く方が、

はるかに大切である。


・・ 「私たちは見えるものによらないで、 信仰によって歩いているのである」

(Ⅱコリント5章7節)

・・ 「主の祝福そのものが人を富ませ、 人の苦労は何もそれに加えない」

(箴言10章22節)


・・ http://www.brandnewlife.jp/archives/51861280.html
                                           

  


Posted by アブラハムささき at 17:57Comments(17)

2015年12月26日

「天命を待って人事を尽くす」


・ 「二つの事件」

ある時、 二つの事件で神の大きな御業を見た。


一つは、 裁判で本当のことを証言したのに、

証人が相手方から訴えられ法外な賠償金を要求された事件。

相手方は架空の証拠や偽の証言を集めて、

こちらの証拠の不十分さを突いてきた。

裁判に負けたら、 証人には破産、 失業が待っている。


証人は何日も断食して、 必死に神に祈った。

そうしたら、 相手方が手続上の大間違いをして、

一度も審理をしないで訴訟が却下されてしまった。

神が相手方に間違いをするように働きかけてくださったとしか思えない。


もう一つは、 クリスチャンの兄弟同士の長年の争いが相続問題で火を噴いたケース。

遺言書偽造、 遺産隠しの疑いもあり、 調停が始まる前から、

激しい人格攻撃が繰り返され、 最高裁まで争う勢いだった。


「これでは、 お互いに共倒れです。 とにかく早期解決を神に祈りましょう!」

私は一方の代理人だったが、 当事者双方に呼びかけた。

双方ともに大勢の仲間に祈ってもらっていた。


すると、 第一回目の調停期日に、

「あなたがたはクリスチャンなんでしょう。

兄弟で喧嘩しないでお互いに譲り合って、

今すぐ和解したらどうですか!」

と調停員が強く説得してくれた結果、

アッという間に調停が成立してしまった。

神が紛争の即時解決のために未信者の調停員に働きかけてくださったのだ。


・ 「苦しい時の神頼み」

「大変だ! どうしよう、 どうしよう!」

問題が起きると、 私たちはあせってすぐに、

「どうしたらよいか」 という方法論に走ってしまう。

あの手この手を尽くしてがんばって問題を解決しようとする。


全知全能の神によって造られた人間には、

いろいろな方法を考え出す能力が備わっている。

それはすばらしい恵みである。

でも、 現実には人間の能力には限界がある。

いくらがんばっても駄目だと知ってはじめて、

「神様、助けてください!」

と叫ぶ。

「苦しい時の神頼み」 である。


・ 「天命を待って人事を尽くす」

しかし、 先の二つの事件の解決を見ると、

順序が逆ではないかと思う。


問題が起きたら、

第一に、 神に解決を求めるべきではないか。

次に、 神の導きを待つべきではないか。

最後に、 神の導きに従って行動するべきではないか。


「人事を尽くして天命を待つ」

と言うが、

「天命を待って人事を尽くす」

のが、 神を信じる者の生き方ではないか。

恐れてすぐに行動したいという衝動を抑えて、

ひたすら主の導きを待ち望まなければならない。


・ 「祈りは労働である、 また戦いである」

聖書によれば、 

神に働いていただくために祈ることは最大の労働である。

祈りは激しい戦いでもある。


問題の根本原因は人間の罪であるが、

それにサタンが食い込んでくる。


だからすべての問題の解決は霊の戦い (神の戦い) であると思う。

罪とサタンに対抗するには、 祈りに祈って神の霊に満たされなくてはならない。

時には、 何度も夜を徹して祈り、 何日も断食して祈らなくてはならない。


・・ 「心を尽くして主を信頼せよ。 自分の知識にたよってはならない。

   すべての道で主を認めよ。 そうすれば、 主はあなたの道をまっすぐにされる」

   (箴言3:5-7)

・・ ブランドニューライフ
   
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Posted by アブラハムささき at 23:50Comments(7)

2015年12月06日

「TPPは問題を解決する千倍の力」


懸案のTPP (Tans-Pacific Partnership) (環太平洋連携協定) が合意された。

世界の国内生産 (GDP) の約4割を占める世界最大の自由貿易圏が誕生する。

太平洋をとり巻く米国、 日本を含む12か国の協定締結国の間で段階的に関税を撤廃するなど、

自由貿易を促進することにより経済的発展および政治的安定を図ろうとするものである。

しかし、 このTPPは人間の考えた方法にすぎないから、

国際的な経済政治の諸問題をどこまで解決できるかは、

今後の課題である。


けれども、 聖書のTPPは、 神の定めた方法であるから、 どんな問題も解決する。

聖書のTPPとは何か?

Thanks (感謝) とPraise (賛美) とPrayer (祈り) である。

このTPP (感謝、 賛美、 祈り) を日常生活の習慣にしていくと、

問題が次々に解決していくから不思議である。

私はこれを毎日体験している。


ただし、 このTPPは意識して実行していないと、

自分の肉の弱さからすぐにNPPになってしまう。

NPPとは、 Negatives (否定) とPessimism (悲観) とPride (高慢) である。

このNPP (否定、 悲観、 高慢) は、 問題をどんどんこじらせていくから不思議である。

私はこれもまた毎日体験している。


TPPとNPPの違いはどこにあるのか。

その人の思いが 「天に向いているか」 それとも 「地に向いているか」 の違いである。

思いが天 (神の国) に向いていれば、

「感謝と賛美と祈り」 しか出てこない。

「大丈夫だ、 どんな問題も天の父が解決してくださる!」

と全能の神の力に頼ることができるから、

問題の重圧から解放され問題を乗り越えていく。


思いが地 (罪の世) に向いていれば、

「否定と悲観と高慢 (自己中心)」 しか出てこない。

「大変だ、 どんな問題も自分でがんばって解決しなければならない!」

と弱い自分に鞭打ってがんばるから、

問題に縛られ問題の下敷きにされてしまう。


アメリカの有名ながんセンターの医師の調査によると、

教会でいつも賛美している聖歌隊員の免疫細胞数は、

一般人のそれに比べて、 なんと 「1000倍」 も多く測定されたという。

毎週教会で賛美と感謝の礼拝を捧げている人たちは、

そうでない人たちと比べて平均7年も長命である。

「1分間、 喜び、 笑い、 感謝の思いに満たされる」

と体内に24時間の免疫システムができ上がり、

「1分間、 怒り、 不平、 不安の思いにかられる」

と6時間分の免疫システムが破壊されるそうだ。


「ストレスは悪いものである」

と思っている人は, ストレスによって虚弱にされてより病弱 ・ 短命であるが、

「ストレスは良いものである」

と思っている人は, ストレスによって強化されてより健康 ・ 長寿であるという調査結果もある。


試練や問題も同じである。

「試練や問題は悪いものである」

と否定的に受け止める人は, それによって弱くされていくが、

「試練や問題は良いものである」

と感謝して受け止める人は, それによって強くされていく。

(ヤコブの手紙1:2)


聖書には、

「主を待ち望む者は新しく力を得、

鷲のように翼をかって上ることができる。

走ってもたゆまず、歩いても疲れない」

(イザヤ書 40:28~31) と書かれている。


天の父を信じて 「感謝と賛美と祈り」 のうちに生きれば、

聖霊の力を得て、

自分の持てる力を十分以上に発揮することができる。

でも、 不安にかられて 「否定と悲観と高慢」 のうちに

この世のハウツー論だけを頼りに生きれば、

自分の持てる力をほんの少ししか発揮できない。


言い換えれば、 TPP (感謝、 賛美、 祈り) は、

NPP (否定、 悲観、 高慢) よりも

「1000倍」 もまさる力である。


「あなたの大庭にいる一日は、 よそにいる千日にもまさるのです」

(詩編 84:10)

                    
  


Posted by アブラハムささき at 02:20Comments(28)