「真理はあなたがたを自由にする」
(ヨハネ 8:32)
「真理とは何か?」
ローマ総督ポンテオ・ピラトは、 イエスにこう尋ねた。
「真実は一体どうなんだ?」
本当のことを知りたい。
これは人間の本能的な欲求である。
ある時、 外国の刑事裁判にかけられた日本人被告人の支援をしたことがある。
その日本人被告人は無罪を主張していた。
現地の弁護士団がその裁判を有利に運ぶために、私は日本での証拠集めを頼まれた。
ところが調査しているうちに、
被告人が有罪だと思われる決定的証拠が見つかってしまった。
拘留中の被告人に真偽を問い合わせたところ、
彼は断固としてその証拠の信憑性を否定して無罪を主張しつづけた。
しかし、彼が有罪であることの私の確信は最後まで揺るがなかった。
現地の弁護士団は、 99%被告人は無罪だとマスコミに発表した。
でも、現地の最高裁判所まで争ったが、 被告人の有罪が確定した。
けれども、 本人が無罪を主張している限り、 誰にも本当のことはわからない。
マスコミや裁判所からこぞって百パーセント有罪だとされた人たちの冤罪事件は後を断たない。
「神のみぞ知る」 と言うが、 本当のことは神にしかわからない。
たとえ、 「自分がやりました」 と被告人が自白しても、 それが真実とも限らない。
「この人には何の罪も認められない」
と言いながら、 ピラトはイエスをユダヤ人たちに引き渡してしまった。
そして、 ユダヤ人たちは無罪であることを知りつつ、
イエスを断罪して十字架に付けて殺してしまった。
人類史上最大の冤罪事件である。
なぜ全知全能の神はすべてを知りつつこれを見過ごされたのか?
そこには人類救済という、人知を越えた父なる神の深いご意志があったのだ。
「真理はあなたがたを自由にする」
無罪という事実にもかかわらず有罪にされてしまうことがあるのはなぜか。
そもそも 「真理とは何か?」 という問いが間違っている。
本当の真理とは、 真実か嘘かという単なる事実ではない。
本当の真理とは、 真偽を含めたあらゆる事実を越えて働いている父なる神のご意志である。
父なる神のご意志は御子・イエスを通して働いている。
ゆえに、 真理とは、 イエスご自身のことである。
だから、 正しい問いは、 「真理とはだれか?」 なのである。
イエスを信じイエスに結ばれることによって初めて、
「愛の神は人知を越えて最高・最善をなしておられる」
と確信することができる。
こうして私たちは、
あらゆる真偽に関する疑惑や束縛や拘束から解放されて、
本当に自由にされるのである。
・・・ 「わたしは、 道であり、 真理であり、 命である」
(ヨハネ 14:6)